菊川の東岸に鎮座する。 当社の背後に奈良淵という地名があり、北は奈良野に接しているから「奈良神社」の社名がつけられたものと推測される。 中世「奈良春日」と称し、後に「奈良」の文字を省略して「春日大明神」と称した。 神社の南側に前方後円墳(大塚古墳と称する)があり、「崇神天皇第六世の孫、奈良別之命が奈良の淵のほとり大官屋敷に住まれ、崩じて大塚古墳に葬られた『池村の王』であり、その御霊を祀つたのが延喜式内の奈良神社即ち現在の上平川春日神社である。」と記されている。 |
春日神社 創建年代詳ならず。古老の伝承するところによれは、延喜式神名帳所載の遠江城飼郡二座の一奈良神社にして中古奈良春日と唱え後世奈良の文宇を省略して春日大明神と称し奉る。当社の背後に奈良野と呼ぶ所有りその所の古記を接するに八幡太郎義家及其妾腹の男遠江国城飼郡横地の城主横地太郎家永深く当社を崇敬し、東横地藤谷山に分霊す。此今の藤谷神社なり。明治6年3月郷社に列格する。 社頭掲示板 |
春日神社 創建年代を詳かにせずと雖も古老の傳承するところによれは、延喜式神名帳所載遠江城飼郡奈良神社にして、中古奈良春日と唱へ、後世奈良の文宇を省略して春日大明神と称し奉るに至ったと言ふ。奈良の社號早く廃れしと雖も當杜背後は奈良淵の地名存し、奈良野と呼ぶ處其北に接す、古記を按ずるに源義家及び其庶子遠江國城飼郡横地領主横地太郎家永深く當社を崇敬し、承暦4申年9月9日横地藤谷山に分霊し奉り、以て領内の鎮守となす。今の藤谷神社これなり。後天正年間平定廣といふもの、當社を崇敬すること篤く、鰐口一口を寄進し武運長久を祈る。銘に曰く「遠州城東郡上平河春日大明神、願主平定廣、子時天正13乙酉季3月吉日」此の鰐口今に存す。明治6年3月郷社に列せられ、同44年11月2日神饌幣帛料供進社に指定さる。 静岡県神社志 |
奈艮神社 奈良は仮字也〇祭神詳ならず○奈良野村に在す、藤屋大明神と称す、(式社考)例祭月日 栗田士満云、奈良野村ニアリ、隣村ニ平川村卜云アリ、氏神二社アリ、共ニ春日明神ト云フ、平川村ノ平ノ字ハ、奈良トモ訓ナレバ併セ考ベシ、 神社覈録 |
郷社 春日神社 祭神 武甕槌命 齋主命 天児屋根命 比売大神 創立年代詳ならず、但し一説に、廷喜式内社城飼郡奈良神社を以て当社に擬するあり、然れども旧記の徽すべきもの伝らず、加之、享保以来、一社の事、郁て嶺田村曹洞宗長安寺に委任せるが故に、益々不明の度を増せり、然れども、隣村近地奈良郷あり、奈良淵、平川又は当社を春日と称し、当村を旧奈良郷奈良川村なりといへば、逡かに一説を放棄する能はず、後考を侯つ、明治維新神佛混淆を禁ぜられて分離せるが、当時古棟札牛梵字を記せるものなりしと、6年郷社に列す。 社殿は本殿(拝殿兼用)及び社務所を備へ、境内1041坪(民有地第二種)を有す。 明治神社誌料 |