雨桜山の山裾に位置する。 旧社地は垂木郷天王山(天王房とも呼ぶ)であるが、永仁年間の出火により社殿を焼失し、同地区にある尾崎宮(現在の六所神社)に遷座した。1397年(応永5年)には現在地に社殿が再建され、尾崎宮(六所神社)より遷座することとなった。1512年(永正9年)には今川氏親より社領75石を寄進される。 |
雨桜神社略記 鎮座地 掛川市上垂木 1612 御祭神 素盞男命 櫛名田姫命 八柱神 由緒 創立年代不詳なれども大日本史110神祇誌に遠江国佐野郡に真草社あり延喜式内社なり、往古天桜天王と称し宝暦8年天を雨と改め明治維新後雨桜神社と称す。 天王社鎮行地より一丁半戊猪に当る天王房と云う御供炊く寺あり、此の寺出火して宮焼失す。御霊は土塚三良太夫と云う者尾崎宮現六所神社へ還すとあり。 応永年中尾崎宮に合祀し此の頃石川の雨桜山上に奉遷し後に現在地に天王社鎮座す。御遷しの際今川氏より米二十五石金子百両寄進とあり。徳川幕府の頃は毎年旧暦6月14日の例祭に掛川藩より領主の代参あり幣帛を賜る。 今川氏親の証文に垂木上下之神領之事不可有違同棟別之事指置候依如件 永正9年8月1日とあり高七十五石を附せらる。 徳川幕府は慶安元年2月24日御朱印高七十五石を附せられ明治維新まで賜る。 社格 明治5年12月郷社に加列 明治41年1月神饌幣帛料供進神社に指定 昭和21年神社庁より七級神社に指定 例祭日 7月7日より14日まで 7月7日大祭執行後三体の神輿六所神社に渡御14日まで滞在同日還幸 8日より六所神社に於いて毎日正午日祭す 13日の宵下垂木中戈中村氏庭に於いて宮人挙りお獅楽の行事あり 14日神輿小松原八幡森馬場に於いて休座の御前にて獅子舞及び流鏑馬奉納後還幸 雨桜と垂木(水) 常に湿神不乾不思議な大桜樹あり古は祈雨の神として雨を乞う人多かりき掛川藩主山内氏の頃貴人桜枝に和歌を付して祈雨す 社頭掲示板 |
雨桜神社 当社は『遠江國風土記傳』や『大日本史』によると延喜式内社の眞草(まくさ)神社と伝えられる。鎌倉末期頃に御供え炊く寺より出火して火災に罹り、付近の尾崎宮(現六所神社)に遷られたが、今川氏により応永2年から始められた社殿造営が応永5年に完成し、お戻りになる。永正9年8月1日には今川氏親より社領75石を寄進される。江戸時代に入っても徳川家康以降の歴代将軍は、御朱印地として社領を継続し、六所神社と共に‘上下宮’として崇敬されたが、明治に至り社領の上知を命ぜられた。明治6年に郷社にとなり、明治41年神饌幣帛供進社に指定される。 古来は「天櫻」と呼ばれていたが、山内一豊公が雨乞いの為に和歌を詠み、桜の木に結びつけたところ、すぐに降雨となり「雨櫻」と称されるようになった。境内は西北山を負い、中腹に社殿がある。石段を下ると東北より迂回して来る清流は東西を貫流し、数百年を経る木々は天を覆い、鬱蒼として神厳なる杜を成している。 垂木の祇園祭 言い伝えによると、雨櫻神社の社殿が焼失した際に、六所神社へ神様がお遷りされ、社殿再建後に戻られました。この由来から、神様が六所神社に合祭されたお礼として、1年に1度の神輿渡御が始まったとされている。 また往古より垂木郷の深山渓谷に怪獣(大獅子)が住み、ある初夏の小麦の刈入れ時、垂木の里にある中村家に現れ、小麦俵を食い荒らしたとされる。村人大いに困り果て、六所神社の神主の占いににて郷内より7騎の武者を集い、獅子平にて怪獣(大獅子)を倒し、村人を救った。 1年に1度の神輿渡御と、怪獣退治の故実がいつしか一緒になり、小麦が収穫できる初夏「垂木の祇園祭」が行われるようになったと伝わる。御渡りされた雨櫻神社の御神輿は六所神社に同じく祀られ、8日7晩の間、郷内の五穀豊穣と氏子崇敬者の無病息災を祈る日供祭が毎日斎行される。お戻りになる前日の夜には、中村家にて小麦俵を食い破る様子を再現した「御獅楽」と呼ばれる獅子舞が行われる。お戻り当日には、怪獣退治の子孫達がこの故実に因み、御神輿が雨櫻神社へ戻られる途中もある馬場の原にて流鏑馬が毎年行われてきた。戦後一時途絶えていましたが、現在は数年間隔を持って伝統を受け継いで行うようになった。 この祇園祭は昔より有名で「垂木の流鏑馬」や「垂木の馬飛び」とも称され、小国神社の正遷座祭の折にも行列を組み入祭した。その盛況さは遠近より多くの参拝者が詰め掛け、掛川藩より警固の武士が派遣される程であったと伝えられている。 公式HP |
眞草神社 真草は麻久佐と読り〇祭神詳ならず○西之郷村に在す、今牛頭天王と称す、(式社考、参考)、 一説云、今真萱村に真草様ト云処アリ、 神社覈録 |
郷社 雨櫻神社 祭神 不詳 櫛稻田姫命 素戔鳴尊 遠呂地神 創立年代詳ならず、但し当社は式内社真草神社にして、元と山名郡馬箇谷村に鎮座あらせられしが、後ち佐野郡上垂木村天王山に遷座し、応永2年、御神託に依りて、更に今の地に奉遷云々、真草の社号を改めて。雨桜と称せし年暦詳ならずといへども、旱魃に際し、雨を祈れば必ず応験あり、為めに世俗雨櫻天王と称せしが、遂に真草の号を失ふに至れるものなるべしと、当社が真草神社なることは、大日本史、遠江風土記伝。日本地理志料遠江古蹟図会、式内社摘考、其他近世の学者当社と断定せり社領朱印七十五石を有したり、諸社朱印写に云く、 「遠江国佐野郡上垂木材天王社領、同村内七十五石事、並社中山林竹木諸役等免除、任慶安元年2月24日先判之旨、永不可有相違者也、 寛文5年7月11日」 明治6年3月郷社に列す。 社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他社務所等を備へ、境内は5010坪、林立せる老杉古柏は蔚然として天を蔽ひ、昼尚暗し、一條の川流、北より東に廻り、境内を貫きて西に向ひ、更に南流す、地勢傾斜あり、坦地あり、懸崖あり、清閑幽邃の神地たり、 遠江国風土記伝に云く、真草神社、社家曰、上垂木下垂木家代遊家四村堺、有天王山(一曰王房)在六所写、天櫻天王旧社也、応永2年移于上垂木村之行宮所、社地有櫻木、故号桜彦、又祈雨則雨、故今人改天称雨桜也」。 特選神名牒に云く、「今按、注進状上垂木村爾桜神杜をあてたれど、応永中天王房と云所より移せりと云ひて、祭神素戔鳴尊、奇稲田姫命なるも、俗に天王と云ものに同じく、天王をもと天櫻とも書き、又雨を祈りしより雨櫻と書きしなりと云へと、真草神社と云べき証あることなし、云々」 徳川志稿に云く、式内神社、真草神社のみ、其所在を失ひて、更に考る所なし、後人牽強して、垂木天王なるべしといへど、天王祠は、応永中の草創にして、式社としての証もなし、又史に神階を授けられしことも 明治神社誌料 |