袋井南中西に鎮座する。赤尾渋垂神社と同社。拝殿右の柱に「赤尾渋垂神社」左の柱に「群辺神社」とある。もと西通りにあり、明治22年の東海道本線の開通により袋井駅ができ、駅前の整備計画の影響により同33年12月18日現在地の赤尾渋垂神社境内に遷座された。 現地はもと赤尾山長楽寺の敷地。山裾の社で境内広く叢林深い。本殿は立川昌敬作である。 |
由緒 創立年代は不明。 延喜式内社・国史現在社として袋井の里々をはじめ、京の都にも名が知られ崇敬されていた。 神仏習合の時代には境内の長楽寺が主となったが、明治の神仏分離令により神社と寺院が分離され境内整備を行う。明治五年社格が郷社に列格。 大正五年に拝殿を改築し、戦後修理を重ねる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
赤尾渋垂郡辺神社 延喜式内社・国史現在社・旧郷社 幕末の甚五郎(立川昌敬)作本殿 赤尾渋垂郡辺神社 静岡県袋井市高尾193番地鎮座 袋井市高尾・駅前・高南・豊沢・愛野地区の総鎮守神 赤尾渋垂郡辺神社(郡辺神社は明治34年に西通りから移転) 御祭神 伊弉諾命・伊弉冊命・誉田別命・大己貴命他十五柱 合祀神社 若一王子神社・八幡神社・天伯神社・八面神社・天神社・注連神社《棟札、社記による》 由緒 創立年代は不明。※延喜式内社・※国史現在社として袋井の里々をはじめ、京の都にも名か知られ崇敬されていた。神仏習合の時代には境内の長楽寺か主となったか、明治の神仏分離令により神社と寺院か分離され、境内整備を行う。明治5年、社格が※郷社に列格。 大正五年に拝殿を改築し戦後修理を重ねる。 御神徳 家内安全、商売繁盛、交通安全、諸願達成の信仰あり ※延喜式内社とは、平安時代の延喜年間(十世紀前半)に著わされた延喜式神名帳に載せられている、古い格式のある神社。 ※国史現在社とは、六国史(日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・文徳実録・三代実録)に記載のある神社。当社は三代実録に記載されている。 ※郷社とは、明治5年に郷土を総括する産土神を郷社と定めた。 白山妙理大権現(本殿は昭和51年に袋井市有形文化財に指定される) 御祭神 菊理姫命・印岐美命(遠江国造)・素戔鳴尊他四柱 合祀神社 山名神社・敢国神社・津島神社 文化財社殿は天正16年(1588)の建立である。垂木などに禅宗様式を主体とした江戸時代初期の建築で、高さ2m、間口1.06mの木造で、木壇(木造)の上に建ち、正面入母屋造背面方形造り、瓦棒型板葺屋根で、小規模の社としては特徴のある貴重な建物である。 赤尾弁財天社 御祭神 白龍神(古代信仰)弁財天(神仏習合時代) 市杵島姫命(弁財天と同一)日心姫命、瑞津姫命 由緒 創立年代不明神社境内の池に、水の神を祀ったと伝えられる。 御神徳 縁結び・安産・子育・音楽・文芸の上達 礎国神社 御祭神 袋井市内の明治、大正、昭和の英霊 1,365柱(平成4年度) 由緒 昭和26年11月、境内の若一王子神社の社殿を転用し、市内英霊の遷霊祭を行う。 現在も袋井市奉賛会により、慰霊祭並び市内転入者の親族英霊の合祀祭が行われている。 立川昌敬作 本殿彫刻 当社本殿は旧郡辺神社の本殿であり、嘉永5年(1852)に建造。 明治34年、西通りから現在地に移転。 立川流について 立川流とは、幕末を中心に栄えた日本の建築彫刻を代表する一派である。 昌敬は流線美の彫刻で知られ、二代目富昌と共に一門最高の技術者といわれる。当社は十二種類の彫刻が現存。『竹と虎』彫刻は、立川流継承者間瀬恒祥氏の手により修理奉納された。 浦安の舞 10月中旬の例祭日 平成の御大典記念事業として、平成元年度より復活。 小学生女子の有志により奉納される。 社頭掲示板 |
由緒 当社は赤尾渋垂郡辺神社と言う名の神社です。 延喜式内社・国史現在社と言われる由緒のあるお宮です。 しかし仏教の盛んな時代は赤尾山長楽寺と言うお寺でした。境内に鎮守神として祀られていました。明治維新の時に神仏分離指令が発令され仏像を移転しました。 明治5年に郷社となり大正4年に神饌幣帛供進社に指定され、第二次大戦後神社本庁に属する宗教法人となりました。 現在までに左記の社を合祀 ・郡辺神社(西通)・八幡神社(境内) ・若一王子神社(大門公会堂ウラ) ・山名神社(境内)・注連神社・天王宮 ・赤尾敢国神社・天伯神社・天神社 現在の本殿(郡辺神社)と施されている彫物は諏訪の名工立川和四郎(昌敬)の作。 社頭掲示板 |
赤尾渋垂郡辺神社 当社古文書に、養老元年(717)遠江国造の神霊を相殿に祀ったと記される。また、「三代実録」には、元慶2年(878)9月16日に赤尾神、渋垂神に従五位下を授けられたとある。 天平11年(739)11月4日には、行基大菩薩により開山、後に高野山普門院の末寺赤尾山長楽寺と号し栄えた寺院であったが、戦国の世に兵火を蒙るなど諸条件に恵まれず、寺社の整備は思うに任せず、明治の世にて旧に復し神社となる。 当時の国策にて、境内神社や久高尾地内大小数社の合祀が行われる。赤尾神社・渋垂神社の合祀を始め、郡辺神社(別名六所大明神・延喜式内社)・若一王子神社・八幡神社・山名神社・敢国神社・天伯神社・八面神社・津島神社・天神社・注連神社等が、移転遷座を余儀無く合祀となった。 明治5年2月郷社に昇格。大正4年神饌幣帛供進社指定。昭和26年改修。平成14年神社本庁指定神社。平成18年社殿改築・社務所新築・境内山林整備を行う。 社頭掲示板 |
由緒 当社古文書に、養老元年(717年)遠江國造の神霊を相殿に祀ったと記される。 また、「三代実録」には、元慶2年(878年)9月16日に赤尾神、澁垂神に従五位下を授けられたとある。 天平11年(739年)11月4日には、行基大師により開山、後に高野山普門院の末寺、赤尾山長楽寺と号し栄えた寺院であったが、戦国の世に兵火を蒙るなど諸条件に恵まれず、社寺の整備は思うに任せず、明治の世にて旧に復し神社となる。 明治の国策(一村一社制)にて、境内神社や旧高尾地内大小数社の合祀が行なわれる。 二つの本殿であった、赤尾神社・澁垂神社の合祀を始め、郡邊神社(別名 六所大明神・延喜式内社)・若一王子神社・八幡神社・山名神社・敢國神社・天伯神社・八面神社・津島神社・天神社・注連神社等が、移転遷座を余儀無く合祀となった。 明治5年2月 郷社に昇格。大正4年 神饌幣帛供進社指定。 昭和26年社殿を改修。 平成14年 神社本庁指定神社。 平成18年社殿改築・社務所新築・平成23年の台風被災後、境内・山林整備を行う。 公式HP |
郡邊神社 郡辺は古保里倍と読り○祭神詳ならず 式社考云、高部村ニアル六所大明神コレナラント、未詳、 神社覈録 |
郷社 赤尾澁垂神社 祭神 息長足姫命、譽田別命、玉依姫命 相殿 赤尾神社 伊弉諾尊、伊弉冉尊、菊理姫命 山名敢國神社 印岐美命、金山彦命、金山毘賣命 創立年代詳ならずと雖も、當社は国史現在社にして、三代実録に、「元慶2年9月16日、授遠江國正六位上澁垂神、授従五位下」と見えたる旧社なり。 然るに、中古、佛徒の侵す所となり、赤尾山長楽寺阿弥陀堂と称せり。 遠江國風土記傳に云く。「赤尾神社、今无此社、轉爲佛堂、赤尾山長楽寺阿弥陀堂是也。三代実録曰、天慶2年9月17日、赤尾神澁垂神、授従五位下、云々。 郷人曰、是地赤尾神社旧蹟、轉爲佛閣、堂宇壮麗而有大塔、是亦早廃矣、喚其處號塔跡、云々。阿弥陀堂、朱符田高十六石」 明治維新に至り、復古して赤尾澁垂神社と称し、同5年2月郷社に列し、23年更に今の號に改む。 社殿は本殿一宇を備え、境内は191坪(官有地第一種)を有す。 明治神社誌料 |