許禰神社
きねじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】許祢神社 遠江国 山名郡鎮座

   【現社名】許禰神社
   【住所】静岡県周智郡森町三倉830番地
       北緯34度53分59秒,東経137度56分39秒
   【祭神】伊邪那岐命 伊邪那美命 事代主命 誉田別命 金山彦命 天忍穗耳命
   【例祭】10月第2日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】享和元年(1801)山崩によつて埋没
       明治6年郷社
       大正4年現在地移転
       同12年神饌幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】もと木根棚指村一丈岩に祀られていた
        享和元年(1801)山崩によつて埋没
        氏子木根松次郎が自宅に遷
        大正4現地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       幣殿・拝殿

   【境内社】若宮八幡社・守明稲荷神社

三倉川の東岸山裾に鎮座する。
もと木根棚指村(当社より北へ約4Kmの山間の集落)の一丈岩に祀られていたが享和元年(1801)の山崩によつて多くの氏子とともに埋没してしまつた。
難を逃れたわずか二戸の氏子の手で細々と守られてきた。
氏子木根松次郎が自宅に遷して祀っていたが、大正4現地へ遷。


許禰神社

御祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命 事代主命 誉田別命 金山彦命 天忍穗耳命
由緒
創建の年代は詳らかではないが古より木根棚指村(現在の木根)の氏神であった。
伝説によると、伊弉諾命が筑紫の日向国で禊ぎされたとき投げられた杖(衝立船戸神)を祀ったと伝えられる。
許禰神社は同村□家の東方約二十町(約2200m)の人跡まれな山中一丈岩鎮座していたが、氏子木根松次郎は山中に鎮座する社殿を自宅正北三丁の自己所有地に間口八尺奥行六尺七寸の社殿を新築遷座し、童子に境内地1006坪を寄進して杉材百本を植林した。
明治6年、浜松県官吏調査の結果延喜式(922年完成の法令書)に登載の許禰神社であることを確認。三倉郷14ヶ村熊□□十□村の郷社と定められたが次第に三倉郷のみで祀るようになった。
大正3年、三倉区内への移転を決め大正4年7月5日現在地に奉遷。同年9月15日三倉蛭子神社を合祀。大正11年9月22日黒田八幡神社、西の峰金山神社、大府川神明神社、中村西宮神社の四社を合祀する。

社頭掲示板




許禰神社

鎮座地 森町三倉830番地
御祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命
    事代主命・誉田別命
    天忍穂耳命・金山彦命
例祭日 10月13日
由緒
創建の年代は明かでないが、延喜式(927年完成)に記されている古社である。昔、木根棚指村の氏神であったが大正4年現在地に遷座した。明治6年、三倉郷熊切郷の郷社に定められる。 大正4年三倉蛭子神社合祀、大正11年黒田八幡神社、西ケ峯金山神社、大府川神明神社、中村西宮神社を合祀。

社頭掲示板



三倉のいわれと許禰神社の由来

三倉は、西の峰・中尾峰・弧張山の三峰からなり、西の峰は、一宮本宮山・黒山から田能まで続き、中尾峰は、文字通り白山や郷社許禰神社の旧社地で三倉中央の峰です。東の弧張山は、天方郷と境界し、その間を流れる中村川と大府川、これを合わせた三倉川をもって旧三倉郷十四ヶ村が存在し、この地域を「三倉」と言います。田能八坂神社の和鏡は平安末期の遺品で、西の峰が古代の塩の道でありました。また、小國一宮の正月「田遊び」では、「米倉・粟倉・見倉の五月男五月女千万万人」と唱えられ、鎌倉時代には「見倉」と記されこれが「ミクラ」の初見です。さらに、田能大般若経奥書に.「至徳4(1387)年遠州御倉郷田尾天王宮」とあり、南北朝時代には田能や大久保あたりが三倉の中心的な集落であったことが理解されます。
遠江国府における遠江国内の祈願所は、国府・一宮・三倉の順で平野から山間地に聖地を置き、春巡行は春埜山、秋巡行の秋葉山へと通じ、遠州一円の規模で諸行事が展開していたようです。三倉は、一宮本宮山の北裏に位置し、また、太田川の水源霊山である大日・霊是山を中心とする須弥山の信仰など、干年以上の昔から開発された集落で山岳信仰の拠点となりました。
許禰神社は、中尾峰木根棚指村の山神で、明治6年(1873)に木根と許禰の同音から遠江国山名郡の式内許禰神社として崇め、三倉郷の郷社に称えて大正4(1915)年6月に、木根の地より現在地に遷座しました。御祭神は、伊弉諾・伊弉冉命(郷社許禰神社)とし、事代主命(蛭子神社、西宮神社)・誉田別命(黒田八幡神社)・天忍穂耳命(大府川神明神社)・金山彦命(西ヶ峰金山神社)、須佐之男命(曲尾八坂・船場)を合祀しでいます。当社は、三倉郷十四ヶ村を代表する格式をもって、旧三倉久右衛門屋敷の内に鎮祭されています。

御遷座100周年記念事業パンフレット



一文を刻む碑除幕

浜松城時代の徳川家康が1574(天正2)年、武田方の犬居城を攻めあぐねて命からがら敗走した際、森町三倉の村人に助けられたお礼に贈ったと、地元に伝えられる短冊が保存されている許禰(きね)神社(同所)で24日、天下泰平の願いをこめた家康直筆とされる一文を刻んだ記念碑が除幕された。
 短冊は横約6cm、縦約30cmの和紙に、墨で「天下和平不生禍亂」と書かれている。漢文読みで「てんかわへいからんしょうぜず」と読み、天下が平和ならば災いや厄介ごとは生まれないとの意味。家康は天下統一を成し遂げた後にこの短冊を贈ったとされる。神社宮司の小澤由彦さん(45)は「家康は幼少期に人質にとられたり、負け戦をするなどさんざん苦労した。泰平の世が続くよう祈る心情を託したのではないか」と話す。
 短冊の存在を知るのはこれまで、神社関係者ら一部に限られていた。同神社が今年、現在地に移転して百年になるのにちなみ、文を転写した記念碑を建立することになった。24日は神社例祭で、短冊は住民らに公開された。神社総代の岡戸章夫さん(57)らは「町の宝として後世に伝えていきたい」と話す。
 家康は武田方の天野氏の犬居城を攻めようとしたが、大雨に見舞われて陣を三倉まで引かせた。天野氏が追いかけて奇襲を仕掛け、敗走した家康は三倉の庄屋矢部久右衛門にかくまわれ、味方の天方城(森町)に逃げ込んだとされる。

中日新聞2015年10月25日



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