許禰神社
こねじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】許祢神社 遠江国 山名郡鎮座

   【現社名】許禰神社
   【住所】静岡県袋井市木原 282
       北緯34度44分38秒,東経137度54分7秒
   【祭神】伊弉諾命 (合祀)速玉男命 事解男命
   【例祭】10月第2土曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】大宝2年熊野権現を勧請
       永保2年(1082)社殿造営
       天文23年(1554)今川義元所領安堵
       永禄4年(1561)今川氏真所領安堵
       慶長7年(1602)徳川家康七十石朱印高寄進
       慶応4年(1868)現社名に改称
       明治6年郷社
       同44年神饌幣帛供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「木原権現」「熊野権現」と称していた
   【社殿】本殿
       幣殿・拝殿

   【境内社】八幡神社・須賀神社

太田川のすぐ東側の平野の中で集落の中央に鎮座する。
もとは、木原権現とも熊野権現とも称していたが、慶応4年(1868)現社名に改称した。


許禰神社

袋井市木原字明神に在り、元熊野権現社と称し今右の名に改む。速玉男命・伊弉冊尊・事解男命の三神を奉斎す。
伝えて式内許禰神社と謂う社記によれば「門奴天皇の御宇大宝3年紀伊国牟婁郡在馬村熊野皇太神を勧請す。
往古の記録は今存せらるも中古崇光院の御宇今川五郎入道範国の二男従五位伊予守造営しその後の天文元年紀伊国鈴木因幡守吉勝増補し、その後慶長10年徳川家康公御殿を造営せらる。安政元年11月14日震災にて皆潰となる。当時の神殿は自普請となる。
御朱印の儀は木原郷の内七十石慶長7年9月29日家康公より頂戴し神供祭礼無懈怠勤来候処明治7年4月上地に相成候。往古は許禰神社と唱え中比に至り熊野権現と相唱え維新以来仏語に似たるを以て古社名を廃して許禰神社の旧に復せり」云々とあり。
今郷社たり明治44年8月11日静岡県告示第273号を以て幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる。

社頭掲示板



許禰神社(木原権現社)

遠江では平治元年(1159)以後、しばしば熊野新宮を造営する費用をまかなうための国に指定されたので、多数の熊野神社が建てられました。袋井市域でも、土橋で熊野権現社、松袋井で熊野十二社神社が現在でも祭られていることから、古代末期より和歌山県の熊野山とはたいへん深い関係にあったことがわかっています。
木原の許禰神社とは、かっては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。許禰神社は。古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、一説には古代の許禰神社が木原権現社になったともいわれています。
木原権現社の神主を代々つとめた木原家には、「木原権現由来記」という全長17mもある巻物が残されています。由来記には、ある日、木原の子供に熊野の神がのり移り、この地に熊野の神を祭れば、洪水を防ぎ、穀物の実りを豊かにするお告げがありました。天才に苦しんでいた村人は、早速に熊野の神を祭った。これが木原権現社の由来だと記されています。当時の民衆が神様に対して切なる願いを記録した貴重な資料となっています。
平成12年8月  袋井市教育委員会

社頭掲示板



許禰神社

由緒沿革: 木原権現由来記によれば文武天皇大宝2年紀伊国熊野権現を勧請して社を建て徳川家康慶長5年旧社領70石を再興し、同10年神殿を造営せらる。明治6年郷社に列す。
神社名鑑より。
木原権現由来(原文のまま)
木原権現勧請之事
木原の社は熊野権現なり、人皇四十二代文武天皇の御宇木原郷に一河の長流あり強雨のをり、ことに水たかくして田畠をひたす、邑民悲しひ大宝二年(約1300年前)春三月里人各集り長堤を築く堤置きたる芝のうへに白幣あらはれ、いつともなく烏余多くむらがり来て其のよそほひ常ならざれば皆人あやしき心地し侍る。
その折から傍に在りける童児忽にはしりて曰く我ハ是熊野権現なり、此所わが霊地にして鎮座する事久しといへども世人知事なし、今此地を犯事なく我を祭ハ、水亡の難を除き、いよいよ五穀栄へ国民穏かなるべしと宣ひ畢而あからせ給ひ皆人寄異の思ひをなして有難事かぎりなし。
則木原のなにかしあるし託宣にまかせ其の地をあらため御社を建て件の白幣を納木原権現と称し、各うやまひあがめまつる、
夫より五穀ゆたかに国民饒に日々に神徳をまし給ふ誠にありかたかりし事ともなり。
御神体之事
昔天神七代にあたらせ給ふを伊奘諾尊、伊奘冉尊と申奉る、此の二神の尊国土を開き、万の物をうみ給ふ、其至極広大の功徳すでに成て後、伊奘冉尊神退ましけれハ紀州熊野有馬の村に納めまつる熊野大神是なり、此神の御子を速玉男其の弟を泉津事解男と申奉り是熊野三所阿権現と云、

社頭掲示板



許禰神社

許禰は假字也○祭神群ならず○木原村に在す、(参考)例祭 月日、

神社覈録



郷社 許禰神社

祭神 速玉男命 伊弉冉命 事解男命
元と熊野権現と称す、明治維新、当社は延喜式神名帳所載の、許禰神社なりとの故を以て改称す、然れども、当社が果して式の許禰なりや否や、未だ遂に断定しがたきに似たり。
遠江国風土記伝に云く、木原云々、木原為許根里、謂社称許根神社、蓋非乎、別有木根村也、云々(三ケ野村相近、大神瓶社乎)
許根神社、式載山名郡、按旧社地三倉郷中有木根村、又城飼郡岡崎村木根里、有南天王北天王等、山名郡堺改易之時移社乎」
伝へ云ふ、宝亀3年、紀州熊野よりの勧請なりと、慶長年中、徳川家康社殿造営の事あり、4年社領七十石を寄せらる、諸社朱印写に云く。
「熊野権現社領、遠江国山名郡木原郷之内七十石事、任慶長7年9月29日、元和3年3月17日、寛永13年11月9日、先判之旨、永不可有相違者也、仍如件
寛文5年7月11日』
当社社領のは、既に東艦文治4年3月條に、熊野山領云々と見えたり、明治6年3月郷社に列す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿を具へ、境内494坪(官有地第一種)を有せり。

明治神社誌料



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