天龍川と大千瀬川の合流点の南に聳える神妻山の中腹に鎭座する。 |
由緒 沿革 宝亀2年(皇紀1430世紀770)11月に創立され、関野大明神、鹿島大明神、神妻大明神また馬主神社とも称えられてきたが、明治6年3月に神妻神社と改められた。 ご神徳 日本の建国に大功を立てられた神様で、強い心と身体を願い、運を切り開く神様として厚い信仰があります。 祭儀 祈念祭2月17日、例祭10月16日、新嘗祭11月23日、歳旦大秡月次祭 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
馬主神社 馬主は宇麻奴志と訓べし〇祭神詳ならず 式社考云、大久保村八幡宮、(参考同)此鳥居前ニテ近村ノモノ馬ヲ索来リ、灸ヲスエ爪ヲ切毛ヲ切ナドス、其ハ此神深ク馬ヲ愛玉フユエニ、昔ヨリ此神前ニ來リテ、カクハスルトゾ、コヲ思へバ馬主神社ハコレナルベシ、一説ニ、山住村ノ西天龍河ノ西神妻社ナルベシ、 神社覈録 |
郷社 神妻神社 祭神 武甕槌神 相殿 大國魂命 伊弊冉尊 宝亀2年11月の勧請なりと、中古関野大明神と称せしが、慶安元年11月鹿島明神と改め、元文元年11月、更に神妻大明神と改む、然るに、当社は式の馬主神社なりとの故を以て、明治3年12月、更に馬主神社と改めしも、6年3月、再び神妻神社と称し、郷社に列せらる。神妻は地名なり、神妻と称するに付き当社御事略伝に云く、 「茲に一人の巫女あり、今に市御子と伝ふ。世嗣なきを憂へ、神妻明神(即ち鹿島神宮に坐す建甕槌大神なり)に祈請する事二十日間なりしと云ふ、或夜月光懐に入ると思ひ不可思議にも懐胎せり、其出生しは男子にして、月花盛家と称す、其人42歳の時行衛不明となり、更に音信なく、明暮憂へ居たるに、或夜神告げて曰く、巫女世嗣なきを憂へ、神に祈請する事久し、故に顕世に出現したるなり、又再帰ることなけん、宜しく吾神霊を斎き祭れと、因りて祠を建て盛家霊神と崇敬せり、遠近の人々疱瘡神と斎き奉る大神なり、故に地名を神妻と名づけ姓を月花とそ謂ふ、其市御子は神の母なりとして、神妻神社の側に墳墓あり、云々、 当社が式の島主神社(周智郡)と称せしは、遠江国風土記傅にして、同書に云く、半場馬引淵狭石、神妻明神社、云々、式内馬主神社」と、馬主神社に付いては、数説ありて、學者の常に迷ふ所なりしが、特選神名牒は、風土記伝と注進状とに拠りて、左の如く極めて無造作に断案を下せり、 今按、この所在、一説に、奥山合相月村諏訪神社と云説もあれど、こは風土記傳に、奥山は、往古信濃国なれば、三代實録にも見えたる馬背神なりと云へば、別なり、又一説に、大久保村八幡は、深く馬を愛し玉ふ神とて、近村のもの、鳥居前に馬を牽来て灸をすゑ、爪毛を切りなどすることあるを思へば、島主神社ならんと云へど。風土紀伝も、注進状も、共に此地と定めたれぽ、之に従へり」 元と朱印高二十七石五斗を有せり、 社殿は本殿、雨覆兼拝殿、其也神樂殿、神饌所等を具へ、境内は元と山林方五十町のよし風土記伝に見えたるが、今は1003坪(官有地第一種)神妻山にあり、境地齢五百に垂んとする大樹枝を交はして森々たり、当社の宝物としては、徳川家康の奉納に係る太刀、軍配団扇、及片桐権右門家正の奉納に係る具足、其他少からず。 明治神社誌料 |