八幡神社
はちまんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】馬主神社 遠江国 周知郡鎮座

   【現社名】八幡神社
   【住所】静岡県周智郡森町三倉4447番地
       北緯34度55分26秒,東経137度55分37秒
   【祭神】誉田別命
   【例祭】8月15日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天文21年(1552)勧請
       貞享元年(1684)再建
       明治12年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

山腹に鎮座する。景色はすばらしく山間の集落を一望する。この地は古い街道という。
江戸時代には小祠でしかなかつたらしく、無禄でもあつた。





戦国夢街道

森町を通るこの道は、古くから遠江国(静岡県)と信濃国(長野県)を結ぶ『塩の道」です。森町は、山中一円の物資の集積地であり、『森口、二俣口』は重要な山中への玄関口でありました。戦国時代には、多くの武将が森の市場を重要視し、これより続く塩の道は物資の交易に欠くことの出来ない重要な街道でありました。
天正2年(1574)、徳川家康は武田方天野氏の居城『犬居城』(春野町)を攻撃しますが、大雨により気田川が増水し進軍ができず、兵糧も尽き退却を余儀なくされます。軍勢を引き上げる途中、徳川軍は天野氏の攻撃を受けます。三倉山中が険しい道であり、悪戦苦闘の末、家康は命からがら逃げ延び、天方城(森町向天方)にたどり着くことのなります。この戦いは、徳川軍にとって多くの武将を失う散々な負け戦でありました。
今も、武将の霊を弔う幾つかの塚やこの戦いの言い伝えが残されています。
また、この道は、江戸時代には火伏せの神秋葉山への表参道として『秋葉街道』と呼ばれ、多くの道者が行き交う『信仰の道』でもあり、秋葉常夜灯や道標などにも今もその面影を伝えています。
自然と歴史が残されたこの山や原野は、今から約400年前多くの武将が必死となって戦った場所であり、武将たちの夢にちなみ、この道を『戦国夢街道』と名づけ、自然に親しみながら歴史を散策いただけるようハイキングコースとして整備しました。ここに残された自然と歴史を堪能してください。

社頭掲示板



遠州三倉郡大久保八幡神社本殿

静岡県指定文化財 平成17年3月20日指定
三倉郷は中央の白山中尾峯東の菰張山そして西は一宮本宮山黒山から続く三丸山の三峯が大府川と三倉川を挟む。
三倉の「倉」は古語で崖を意味しその三峯二川が集まる急峻な所、これが三倉の地名の由来である。
当地大久保は三丸山下の大きな窪みで、原始古代から信州と遠州を結ぶ交易の尾根道(塩之道)上にあたる。北接する田龍(田尾)には平安末期の阿弥陀如来が安置されこの頃集落が形成された。
大久保八幡宮は三倉郷内を守護する武神として南北朝期には鎮祭されていたようで(当社御正体編年)現存社殿には棟札に「奉再宮八幡大菩薩之御宝殿畢于時天文21年(1552)壬子極月(12月)15日」とあり寄附者8人(大久保大屋・田尾禰宜・大河内云々等)の九百文が加えられて本殿が再建された。静岡県内に現存する社殿としては、引佐方広寺七尊菩薩堂に次ぐ古いもので江戸前期の貞享元年(1684)の改修はあるものの、身舎・向拝6本の柱や木鼻・肘木・組物に往時の部材が確認される。向拝柱は面取りが深い角柱でかっては、丹を施し宝珠や雲形文様が線描される等華麗な建物であった。又、屋根部分は厚い杉板を大和葺し中世の建築遺構を今に伝えている。
天正2年(1574)徳川家康は犬居城の天野氏を攻め此所三倉山に陣取り、この八幡宮へ武運長久を念じたが敗走。後に天下平定を打ち立てた家康は慶長16年(1611)に田龍・大久保・中野・乙丸・舟場の主出(名主層)を召出し天下泰平の短冊を大般若経御前に盃を奉じ、苦難から救ってくれたことに感謝したと伝えられる。
平成26年4月吉辰 敬白

社頭掲示板



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