山腹に鎮座する。景色はすばらしく山間の集落を一望する。この地は古い街道という。 江戸時代には小祠でしかなかつたらしく、無禄でもあつた。 |
戦国夢街道 森町を通るこの道は、古くから遠江国(静岡県)と信濃国(長野県)を結ぶ『塩の道」です。森町は、山中一円の物資の集積地であり、『森口、二俣口』は重要な山中への玄関口でありました。戦国時代には、多くの武将が森の市場を重要視し、これより続く塩の道は物資の交易に欠くことの出来ない重要な街道でありました。 天正2年(1574)、徳川家康は武田方天野氏の居城『犬居城』(春野町)を攻撃しますが、大雨により気田川が増水し進軍ができず、兵糧も尽き退却を余儀なくされます。軍勢を引き上げる途中、徳川軍は天野氏の攻撃を受けます。三倉山中が険しい道であり、悪戦苦闘の末、家康は命からがら逃げ延び、天方城(森町向天方)にたどり着くことのなります。この戦いは、徳川軍にとって多くの武将を失う散々な負け戦でありました。 今も、武将の霊を弔う幾つかの塚やこの戦いの言い伝えが残されています。 また、この道は、江戸時代には火伏せの神秋葉山への表参道として『秋葉街道』と呼ばれ、多くの道者が行き交う『信仰の道』でもあり、秋葉常夜灯や道標などにも今もその面影を伝えています。 自然と歴史が残されたこの山や原野は、今から約400年前多くの武将が必死となって戦った場所であり、武将たちの夢にちなみ、この道を『戦国夢街道』と名づけ、自然に親しみながら歴史を散策いただけるようハイキングコースとして整備しました。ここに残された自然と歴史を堪能してください。 社頭掲示板 |
遠州三倉郡大久保八幡神社本殿 静岡県指定文化財 平成17年3月20日指定 三倉郷は中央の白山中尾峯東の菰張山そして西は一宮本宮山黒山から続く三丸山の三峯が大府川と三倉川を挟む。 三倉の「倉」は古語で崖を意味しその三峯二川が集まる急峻な所、これが三倉の地名の由来である。 当地大久保は三丸山下の大きな窪みで、原始古代から信州と遠州を結ぶ交易の尾根道(塩之道)上にあたる。北接する田龍(田尾)には平安末期の阿弥陀如来が安置されこの頃集落が形成された。 大久保八幡宮は三倉郷内を守護する武神として南北朝期には鎮祭されていたようで(当社御正体編年)現存社殿には棟札に「奉再宮八幡大菩薩之御宝殿畢于時天文21年(1552)壬子極月(12月)15日」とあり寄附者8人(大久保大屋・田尾禰宜・大河内云々等)の九百文が加えられて本殿が再建された。静岡県内に現存する社殿としては、引佐方広寺七尊菩薩堂に次ぐ古いもので江戸前期の貞享元年(1684)の改修はあるものの、身舎・向拝6本の柱や木鼻・肘木・組物に往時の部材が確認される。向拝柱は面取りが深い角柱でかっては、丹を施し宝珠や雲形文様が線描される等華麗な建物であった。又、屋根部分は厚い杉板を大和葺し中世の建築遺構を今に伝えている。 天正2年(1574)徳川家康は犬居城の天野氏を攻め此所三倉山に陣取り、この八幡宮へ武運長久を念じたが敗走。後に天下平定を打ち立てた家康は慶長16年(1611)に田龍・大久保・中野・乙丸・舟場の主出(名主層)を召出し天下泰平の短冊を大般若経御前に盃を奉じ、苦難から救ってくれたことに感謝したと伝えられる。 平成26年4月吉辰 敬白 社頭掲示板 |
八幡神社(大久保) 信州街道(秋葉街道)ぞいの此の村に、人々が住むようになったのは、室町時代中期のころと言われています。 昔は、村人の心の寄りどころとして、この小さな大久保の村のあちこちに祠がたてられ、神が祀られていたのです。 江戸時代の寛政十年(1798年)の著書「遠江風土記伝」(内山真龍著)によれば、大久保地域内の神社を除地高順にみると、金山社・地神社・荒神社・権現社・天神社の五社が記録されています。 現在の八幡神社の位置にあった金山社は、貞享元年(1684年)に建立され、その後金山社が八幡社となり、元禄十三年(1700年)には、八幡社以外の四社を合祀して、八幡神社となったと言われています。 この八幡神社は、江戸時代から昭和の初めにかけて、武術の神として崇められ、毎年一月十五日の八幡神社祭典には、馬の速馳けなどの行事が行われていました。 また、遠い信濃への旅の途次、商売繁盛や旅の安全を祈願したとも言われています。 苔むした石垣や杉の大木(姿を消したものが多い)厳かな拝殿に、遠い昔を偲ぶことができます。 社頭掲示板 |
馬主神社 馬主は宇麻奴志と訓べし〇祭神詳ならず 式社考云、大久保村八幡宮、(参考同)此鳥居前ニテ近村ノモノ馬ヲ索来リ、灸ヲスエ爪ヲ切毛ヲ切ナドス、其ハ此神深ク馬ヲ愛玉フユエニ、昔ヨリ此神前ニ來リテ、カクハスルトゾ、コヲ思へバ馬主神社ハコレナルベシ、一説ニ、山住村ノ西天龍河ノ西神妻社ナルベシ、 神社覈録 |