天方小学校西に鎮座する。山の中腹にあり。集落の奥。氏子総代もご神体は見たことないという。 『遠江国風土記伝』では、山名郡の式内社である許禰神社をこの大鳥居の八幡神社に比定している。 |
八幡宮由緒 (明治12年(1879)本県令西第31号により調査報告したものによる) 【天方村沿革誌より編纂したもの】 一.村社 八幡宮 天方村(現森町)大鳥居字八幡596番地 一.祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと) 一.由緒 社伝に曰く神亀之丙寅年(奈良時代・726年)8月15火、豊前国宇佐八幡(現大分県宇佐市南宇佐亀山)を遷座奉り、其の後天正17年(安土桃山時代・1589年)徳川家伊奈備前守殿御書付を給わり、慶安2年(江戸時代・1649年)8月17日御朱印高五石(12俵2斗 750Kg)を賜り、寛永17年戌年(江戸時代1640年)12月遠江国掛川領主・青山大蔵少輔幸成殿先祖数代の氏神に依って寄附どあり、同村に於いて高2石5斗(6俵1斗 375Kg)を給わり、其の後、掛川城主代々御書付相成之を給わる。 社殿修繕は、自費を以ってし或いは社木を以っで仕え来り明治6年(1873)3月郷村社格定の節、村社に列す。 ≪遠江風土記伝「寺社の項・【大鳥居に座す八幡社】に左記の記述有り≫ 文亀元年(1501)の酉年、山城国石清水八幡宮を此地に勧請す、而して天方城主山内山城守(通季)墾田の高2石(5俵・300Kg)を寄附す。 ◇拝殿・楼門は、明治42年(1909)改築により除去せり。 平成13年(2001)11月 大鳥居八幡宮 社頭掲示板 |
天方本城址 案内板 一、標高 161m 二、比高 90m 三、現在地から本城まで 620m 四、築城者 天方山城守通秀(法名・■三) 五、築城期間 南北朝末期〜室町前期 六、遺構 本郭 副郭 西郭 殿郭(切岸) ■郭 切落 土橋 横堀 堀切 井戸郭(水場)馬場平(外郭)堅堀 城の腰(横堀 切落) 七、天方本城の戦い (1)文亀元年(1501)秋、遠江侵攻の今川氏親と遠江国守護斯波義寛の攻防戦があつた。天方本城は、一時斯波方に占拠されたが、間もなく今川方が奪い返した。この時の城主は天方家五代の天方通季(法名・通分)であった。 (2)永禄11年(1568)12月、遠江に侵攻した徳川家康に、遠江の諸城主や土豪たちは家康に降伏したが、天方城主天方山城守通興と飯田城主山内大和守通豪は、家康に従属しなかったため、翌年(1569)6月19日天方本城と支城の白山城は徳川軍に攻略され、通興は降伏し許された。 因みに飯田城は陥落し大和守通豪以下城兵残らず討ち死にした。(改正三河後風土記、外) (3)元亀4年(1573)3月、徳川家康は、前年12月、三方原合戦で武田軍に大敗したため、遠州での劣勢撤回を図るべく、平岩七之助順吉を大将に千余名の軍勢で、天方本城と白山城に拠る武田方の遠州先方衆で守将の久野弾正忠宗政、反徳川の遠州の小侍達ら百余名を攻略した。天方通綱も久野弾正と行動を共にしていたが降伏し許されるが、弾正宗政は甲州へ遁走する。 (4)天正2年(1574)4月、徳川家康は犬居城主天野宮内右衛門藤秀を攻撃のため出陣するも、豪雨と兵糧の欠乏により余儀なく退去する。その時三倉の田能・大久保で武田方の樽山城兵と光明城兵の待ち伏せにあい徳川軍は惨敗する。 家康は三倉城に逃げ込むが、要害の城でないと馬を進めて、天方本城に入った。 平成14年3月 森町天方築社会教育推進協議会 社頭掲示板 |