山住神社
やまずみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】芽原川内神社 遠江国 周知郡鎮座

   【現社名】山住神社
   【住所】静岡県浜松市天龍区水窪町山住230
       北緯35度8分4秒,東経137度54分50秒
   【祭神】大山祇命 事解男命 伊弉册命 速玉男命
   【例祭】11月15日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】和銅2年伊予国大山祇神社より遷祭
       貞観2年(860)正月27日従四位下『三代実録』
       同16年2月23日従四位上
       保元年中(1156−58)守屋兵部大輔が熊野大神を勧請
       応永29年(1422)藤原貞茂造営
       永正10年(1522)奥山良茂造立
       慶長6年(1601)神領寄進
       明治5年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】勝坂または門桁、気多の宮川に創建という
        のちになつて現在地に移した

   【祭祀対象】ヤマのミ(霊)のこと、即ち山の神を祭る神社
   【祭祀】江戸時代は「山住三社(三所)大権現」「山住権現」「山住社」と称していた
   【社殿】本殿
       幣殿・拝殿

   【境内社】高根神社・十六神社・常光神社

山住山の山頂にあり、境内には樹齢1260年の巨大杉がある。(県の天然記念物)
和銅2年元明天皇の御代伊予国越知郡大山祇神社より遷祭したと伝える。
初め勝坂にあつたとか、門桁、気多の宮川に創建し、のちになつて現在地に移したという。


由緒

山住神社は静岡県磐田郡水窪町山住230に鎮座せられ、御祭神は日本総鎮守大山祇命にして、和銅2年元明天皇の御代伊予国越知郡大山祇神社より遷祭し山住大権現と号す。
56代清和天皇の御代貞観2年1月27日遠江国正五位下苅原河内守従四位下を授けられ、同16年2月23日遠江国従四位上を授けられ、勅使を2回下向せられた延喜年中式内社に列せらる。
永正10年6月7日103代後柏原天皇の御代奥山郷高根城主大膳守武運長久の祈願にて御造営(高根城跡は水窪町久頭合に有り)。越えて105代正親町天皇の御代元亀3年徳川家康公浜松御在城の時(31歳)三方原の戦い利あらず当神社へ逃げる。敵は家康公を追って当神社に迫るや一天俄にかき曇り辺りは薄暗く日暮れの様相と化し、風腥く霊山全域にてウオーウオー地響きのするうなり声起こり、敵はこの奇声に胆を潰し退散、これを以て家康公安泰に難を逃れる。翌天正元年正月17日(32歳)お礼御参社あり、天正4年宝剣2振、慶長19年宝剣1振奉納せらる。
慶安2年8月17日徳川幕府累世御朱印を賜る。114代桜町天皇の御代享保18年3月16日雷火の為本殿幣殿を始め宝蔵に至るまで焼失したため御普請御免のお許しを請んとし、大宮司山住大膳亮禰宜高木三郎太夫を従え、時の将軍吉宗公に直参の際将軍の御意を以て夏6月江戸において臨時祭を斎行すると一天かき曇り寒気甚だしく降雹あり。御感浅からず直ちにご普請差し許されたりと明治5年山住神社と改め、県社に列せらる大神は専ら邪気退散魚漁豊足家内安全商売繁盛お犬様信仰の御霊験あらたかで往時より遠近の信者登山参拝するもの甚だ多い。海抜1100メートルに鎮座、周囲2丈余の御神木(神社庁指定)老杉は天然記念物として県からも昭和46年8月3日指定されている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




静岡県指定天然記念物

山住神社のスギニ本
日通り A 7.01m  B 9.20m
根廻り  10.50m 10.30m
樹高   40.00m 41.00m
枝張り(東西)18.00m 22.10m
   (南北)17.00m 13.80m
樹令釣 1300年
材積約 104立・方メートル(376石)
今時指定となつた山住杉は和銅2年(709年)この地に神社鎮座の頃御神木として植栽されたものと推定され樹令1300年有余(昭和34年伊勢湾台風による倒本の年輪によつて確認できる)が数えられ、この樹齢に比して旺盛な樹勢は稀らしいとされている。
山住杉の由来
この付近一帯の杉ば元録9年(1696)2月今からおよそ300年前山住家23代大膳亮茂辰公が当時幕府御用材の乱伐を憂え、遠く伊勢より三万本の杉苗を購入し、この地方における造林の第一歩を印した。以来大膳亮は没年の延享元年(1744)まで48年間実に36万本に及ぶ杉檜の拡大造林を進め、明治、大正期東京市場での「山住杉」の名声を残すと同時に、今日における天竜林業の振興の基礎を築いたこれから由緒ある杉は山住神社境内外に幾星霜を経た歴史の曲跡をしのぶことができる。
昭和46年8月3日指定

社頭掲示板



古多麻石

遠江風土記によると「天正4年(1576年)家康公行軍時、御敵天野氏追ひ到って鬨聲を擧ぐ其聲石に響く則ち自ら畏れて退散す故に古多麻石と曰ふ」
天正4年(1576年)家康公が山住神社を参拝したという記録はないが、この年宝刀「伯耆安綱」が奉納された。天正2年の犬居城攻めは増水した気田川で撤退し、天正4年の犬居攻めで天野氏は信州へ逃げ延びた。
山住神社由緒書によると敵が攻めて来たときお犬様の「ワゥオー・ワゥオー」と大きな声は山に木霊し敵は驚き退散したと伝えられている。
みさくぼ文化財懇話会
みさくぼ観光ボランティアガイドの会

社頭掲示板



山住神社

御祭神 大山祇命・事解男命・伊弉册命・速玉男命 和銅2年(709)伊予の大山祇神(おおやまづみのかみ)を勧請して山住(やまずみ)大権現と称した。
当初は、勝坂、あるいは門桁、あるいは宮川に創建された後、現在地に遷座したという。
徳川家康が武田勢に追われ山住に逃げ込んだ時、山全体が鳴動し、ウォーウォーという山犬の大音声がおこり、武田勢を退散させた。以来、徳川家康の崇敬を受けたという。そのためだろうか、当社の神紋は葵の紋だ。
徳川家康を助けた山犬の声でも明白だが、当社は、山犬(狼)信仰の神社。当社の神札には、山犬様が描かれている。山犬(狼)は、農作物を荒らす猪や鹿を退治する益獣であり、焼畑の作物の守り神。
奥三河一帯には、山住神社の山犬信仰が浸透しているという。
昭和27年の佐久間ダム建設の時、周囲の猪が、いっせいに愛知県東栄町方面へ移動し、作物に多大な被害を与えた。この時にも、猪害をさけるため、小字単位で山住の小祠を作って祀ったという。
猪退治の山犬信仰は、その後、悪霊除け、猿除けへと拡大した。

由緒書



山住神社と家康公

百戦錬磨、天下人となった戦国武将家康公は唯一大敗した戦があった。
元亀3年(1572)三方ヶ原に於いて家康公率いる徳川軍八千は武田軍三万の大軍に打ち砕かれれた。
この時家康公ば血気盛んな32歳知略・戦略に長けた信玄君は52歳であった。
その後武田信玄が没し、天正年間になりこの地方は徳川の支配下となった。
家康公にとってこの戦いは、終生忘れることの出来ない教えとなる。
宿敵武田の居城甲斐の国は丑寅(北東)の方角に位置し古来より鬼門の方角と言われている。
家康公は御料地の鬼門の方角を守護る山住神社を遠江の「丑寅の鎮守」として末代まで篤く信仰された。
水窪町 教育委員会
水窪町文化財専門委員会
山住神社

社頭掲示板



芽原川内神社

芽原は波岐波良と訓べし、(芽を波岐と読は、唐韻に■音跋、草名、字■補作芽、とあるが源にて、康煕字典、■直音朔■、とあれぱ芽を波岐とは読がたくや、然れぱ字■■は転訛の説なるべし、類聚名■抄云、■音護、ハギ■子同と見え、芽にはハギの和訓なし、さてばこゝの芽は■に作るべし)川内は加不知と訓べし、○祭神詳ならず○萩原山麓川内村に在す、今山住権現と称す、(社説)例祭10月17日、
神位
三代實録、貞観2年正月27日戊寅、授遠江国正五位下苅原河内神從四位下、同16年2月23日癸丑、授遠江國從四位下苅原河内神從四位上

神社覈録



縣社 山住神社

祭神 大山祇命
相殿 熊野神社 事解男命 伊弉冉命
   速玉男命
合祭 誉田別命二座(正八幡神社・若宮神社) 市杵島姫命(池之神社)
奥山金吾霊神(金吾八幡神社) 建御名方命(諏訪神社)
埴山姫命(勝知神社) 建速須佐之男命(八坂神社)
伊豆能売命(伊豆神社) 菊理姫命(白山神社)
明細帳所載の社伝に、和銅2年、伊予国越智郡大山積神社勧請と見えたるが、次いで遠江国風土記伝所引の社記に「養老元年勅願所、貞観年中勅使二度、故於今有勅使殿」と見えたり、近古当社を以て、式内社周智郡芽原川内神社に擬す。
遠江国式内社摘考に「芽原川内神社、秋葉山より八九里北に、山住権現といふて大祠あり、其祠の下を川内村といへば、是ならむ』
遠江国風土記伝に「芽原川内神社、奥山郷地頭方村山住社也、云々、古老曰、当社在勝坂、後移于門桁村、又遷于芽原」
神名帳考証に、国人云、今萩原山の下なる川内村に、今山住権現と云ふ大社あり、これなりと云へり、しかれば、芽原と帳にあるが是なるべし」
など見えたり、然れども、特選神名帳腺は「この村、古へは苅原河内村と云しを、延喜中に、芽原河内村と改め、慶安中に、山住郷と改むと云るは疑はしきに似たり、猶よく考ふべし」といひ、大日本地名辞書は、「或書に之を以て延喜式周智郡芽原川内神社に引きあてたれと、地界相異して、今こそ周智の管内なれ、古の山香属域なれば、式内社にあらず」といへり、式の芽原川内神社は、其の当時、小社に列せられたるが、是より先。貞観2年正月戊寅、正五位下より從四位下に進み、同16年2月癸丑、更に從四位上たるよし三代實録に見えたり、保元元年、守屋兵部少輔藤原茂房、諸社を造営して、熊野大神を当社に奉遷し、永正10年6月、麓久頭合高根城主奥山大膳亮又造営す、後ち徳川家康、元亀3年三方ケ原の役に、当社に祈りて戦捷つ、即ち当社を祈願所として神劔二口を納め奉り、関ヶ原陣後、更に本殿以下を新に営み、神劔一口、神馬五匹、麻布旗百本を奉納して、報賽の典を挙ぐ、爾来幕府の営繕となり、朱印三十七石五斗を有したりしが、後ち五十九石四斗二升九合に改められしと、明治6年3月縣社に列し、同7年正八幡神社以下十三社を合祀す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神饌所、杜務所等を具ふ、蓋維新後社司山住氏の新築に係る、境内1336坪(官有地第一種)あり、東は門桝山官林及京山に接し、南は遙に遠江灘を望み、三河伊勢一帯の群山一眸の中に入る、当社には古来例祭当日供饌に当り、一行事あり、風土記に見えたり、今ありやなしや、
「祭日、供御膳以手板鳴盤、祝祠申曰、於保米志遠米志伊支伊古志米引勢引、数刻畢」

明治神社誌料



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