岩田駅東。今之浦川西岸近くに鎮座する。 履中天皇4年創立といい、もと杉村神戸島(現在浜松市春野町杉)に500年鎮座。陽成天皇元慶3(881)現地へ。 |
由緒 人皇17代履中天皇4年(5世紀初)杉村神戸島(現在周智郡春野町杉)に奉祀され、以後五百年間ここに鎮座せられた。同処で歳々正月乾鹿壱石を作り、貢として奉納するを例としたために鹿を駆って苑内にいれた(鹿苑の称) 当時国に一之宮、二之宮等あり。当社は二之宮にあたり、国司巡拝の順序を意味した。 神戸島は当地より十五里を隔てる山間の地なる故、人皇57代陽成天皇天慶5年(西暦881年)現在の地に遷座せられ、是により二之宮の地名とせられた。遠江国風土記伝にいう「当地は於保の郷十三ヶ村の惣社、旧朱印二十三石を有し、往時は一之宮小国神社と併称せられ、社殿宏大社領三百石を有せり」と戦国時代兵火にかかり全焼、宝物書類等を失う。式内社。郷社。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
鹿苑神社 祭神 大名牟遅命(大国主命) 由緒 人皇十七代履中天皇4年(5世紀初) 杉村神戸島(現在周智郡春野町杉)に奉祀され以後500年間ここに鎮座せられた。 同処では歳々正月乾鹿壱石を作り貢として奉納するを例とした、ために鹿を駆って苑内にいれた。(鹿苑の称) 当時国に一之宮、二之宮等あり当社は二之宮にあたり国司巡拝の順序を意味した。 神戸島は当地より十五里も隔てる山間の地なる故 人皇五十七代陽成天皇元慶3年西紀881年現在の地に遷座せられ 是により二之宮を此の地の地名とせられた。 遠江風土記伝にいう「当社に於保の郷十三ヶ村の惣社旧朱印二十三石を有し往時は一之宮小国神社と併称せられ社殿宏大、社領三百石を有せり」と、戦国時代兵火にかかり全焼宝物、書類 等を失う。 磐田郡十四社式内社の一社 社格は郷社であった。 社頭掲示板 |
御由来 鹿苑神社は、人皇17代覆仲天皇御代4年(五世紀初め約千五、六百年前)周智郡春野町杉神戸島に大名牟遅命(オオナムチノミコト)を御祭神とし、小國鹿苑大菩薩として奉祀され、それ以来500年近くの間神戸島に鎮座しておりました。この間毎年乾肉(鹿の?キタシ)一石を作り貢物として宮中に奉納されて居りました。この為山中に鹿を駆って神苑内に入れたと云われ、それより鹿の苑として小國鹿苑大菩薩と云われて来ました。(杉の古文書、棟札等に依れば「鹿苑(ロクオン)」を六音とか「小國」を正國と書かれたものがあるが、これは当時当字がしばしば使われたものである)その時、人皇17代陽成天皇御代元慶5年(西881年)今より1100年前、現在地で二之宮に遷座されたものである。 二之宮鹿苑神社略記 |
鹿苑神社 御由来 (一)創建 鹿苑神社は、今より約1600年前の人皇第17代履中天皇御代4月10日(五世紀初め)現在の浜松市天竜区春野町杉・神戸島(現在は「門島」と表記)に大名牟遅命を御祭神とし、小國六音大菩薩として奉祀され創建されました。 それ以後五百年近くの間、神戸島に鎮座されて居ました。この間、毎年乾鹿(鹿の皮)一石を作り貢物として宮中に奉納されて居ました。このため山中に鹿を駆って神苑内に入れたと謂われ、それより鹿の苑として小國六音大菩薩といわれてきました。(杉の古文書によれは「鹿苑」を「六音」とは、「小國」を「正國」と書かれたものがありますが、これは当時、当て字がしばしは使われたものであります。) 当神社は、嘉祥3年(西暦850年)7月11日には従五位下(文徳天皇実録)、貞観2年(西暦860年)正月17日には従四位下(日本三代実録)の神階を授けられて居ます。 また、当神社は延喜年間に醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」神名帳に列せされた式内社でもあります。(「延喜式」は西暦927年に完成。) (二)現在地に遷座 その後、当神社は、今より約1030年前の人皇第57代陽成天皇御代元慶5年(西暦881年)、現在地である磐田市二之宮に遷座されたものであります。 現在地においては、当時、香園神社とも高根神社とも呼ばれて居りましたが、現在では鹿苑神社として一般に崇められて居るのも以上の所以であります。 この当時、国には一之宮、二之宮として神々を祀り、国司の巡拝順序が定められて居りました。遠江国の一之宮は静岡県周智郡森町一宮の小國神社(御祭神大國主命)で、二之宮は神戸島にあった当神社であった訳でありますが、国司は毎年正月にこれらの宮々を巡拝するのが習わしとされてとされて居りました。 西暦881年に小國鹿苑大菩薩が現在地に遷座された理由として、神戸島は何分にも山間僻地にあり国司の巡拝に日数がかかり国の政事に支障をきたすため、当時現在の磐田市中泉にあった遠州遠江国府近くの現在地が遷座地の適地として選ばれたものであります。 このため現在地は、以来二之宮と云われるようになったものであります。(以上、鹿苑神社「高根明神とも云う」)並びに神戸島の小國神社社史にも同じような歴史を残して居ります。) (三)社格 遠州國風土記傳に依れば、室町時代の頃「当社(鹿苑神社)は於保の郷十五ヶ村の惣社であり、御朱印二十三石を有し、住時は一之宮小國神社と併立され社殿宏大、社領三百石を有せり」と記してあります。 右のように当神社は、かつて一之宮小國神社と同等の三百石の田を祭祀料として賜って居りましたが、長い歴史の間に幾多の兵火にあい神殿は勿論、宝物、古文書等も焼失してしまいました。 江戸時代に入り、元和9年2月(二代将軍徳川秀忠の時代、西暦1623年)に再建され、幕府より朱符高二十三石を賜って居ります。 また明治6年3月、当神社は神饌幣帛を供進し得べき神社に指定され、「郷社」の位を賜って居ります。昭和20年以降、社格称号が廃止されるも、当神社は鹿苑神社と称し、郷土の産土神としてお祀りされ現在に至って居ります。 由緒書 |
鹿苑神社 鹿苑は加曽能と訓べし〇祭神園韓神、事代主神、(風土記)〇二宮村に在す、今高根神と称す、(参考)例祭 月 日、○惚國風土記四十六残欠云、遠江國磐田郡香園神社、(或作鹿苑)圭田二十八束三字田、欽明天皇3年壬戊、自官園韓神、事代主両神所祭也、有神家巫戸祝第宅、 式社考には、中泉村鹿苑大善薩ト云フ社是也、と云り、 神位 文徳実録、嘉祥3年7月丙戌、遠江國鹿苑神授從五位下、三代実録、貞観2年正且27日戊寅、授遠江國從五位下鹿苑神從四位下、 神社覈録 |
郷社 鹿苑神社 祭神 大名牟遅命 旧と鹿苑大菩薩とも、正圏六昔大菩薩とも、二宮、又、高根明神とも奉称す、式内社鹿苑神社は当社なり。 遠江国式内社摘考に云く、鹿苑神社、中泉村の東、鹿苑大菩薩といへる神あり、是なること著し」 神社覈録に云く、「鹿苑神社、二宮村に在す、今高根神と称す(参考)」 神祇志料に云く「鹿苑神社、今二宮村にあり、鹿苑大明神と云ひ、又高根明神といふ、(遠州一統志、巡拝旧祠記、神名帳土代)」 嘉祥3年7月、丙戌從五位下を奉授せられ給へること文徳実録に見え、次いで貞観2年正月戊寅、從四位下に叙せられ給へること三代實録に見えたり、鹿苑の号は、往古、乾鹿の肉を貢するため。鹿を狩りて苑内に入る、即ち其処に鎮座の神なるが故に称せりと、明細帳に所見あり、元と山香郡輿利の郷に鎮座せしが、(遠江國風土記伝云、旧跡有山香郡輿利郷、後移于二之宮村年月不詳今の地に奉遷す、旧朱印二十三石を有せり、伝へ云ふ。往時は一之宮小国神社と并称され、社殿広大、社領三百石ありき、明治6年3月、郷社に列せらる。 社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神庫等を具備し、境内431坪(官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |