磐田税務署の東に隣接して鎮座する。 天武天皇の曾孫桜井王が遠江海の国司として赴任された時、庁内に祭られた。 旧社家秋鹿朝成家文書写に府八幡宮を以て入見神社なりとする部分がある。 その鎮座地を現在入見山と通称する。 『遠江国風土記伝』に、境内に須波山という名があり、須波若御子神社があったとする説がある。 御祖神社は中泉村八幡宮とあって、当社とする。 |
由緒 磐田市の図書館の庭、当府八幡宮社務所よりの所に万葉歌碑があり、これには天武天皇の曾孫桜井王と時の天皇との問答歌が刻まれている。この桜井王が遠江海の国司(今の知事に当たる)として赴任された時、国内がよく治まるようにと庁内に祭られたのが、この神社の始めで、従って府八幡宮と称するのであると、社記に伝えられ、奈良平安時代のものと思われる社宝が現存する。桜井王の着任は一説では元正天皇の養老3年(719年)か同年頃と考えられている。また鎌倉時代には秋鹿氏が此の地に止って神主となり、江戸時代には神主と代官を兼ねて二百五十石を給せられた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
府八幡宮略記 祭神 祭神は 足仲彦命(仲哀天皇……御父君) 気長足姫命(神功皇后……御母君) 誉田別命(応神天皇……その御子)の三柱である。 例祭 毎年十月初の土曜日と日曜日に斎行される。初日には、社殿で、大祭がおごそかに行われ、二日目にはおみこしが華やかに町内を巡幸する。その前、九月の最後の日曜日には前浜で浜垢離が各町参加のもと、厳粛盛大に行われ、その際の神事の砂は「清め砂」として地鎮祭などに用いられている。祭日の両日にわたって山車が町内を引きまわされる。 由緒 磐田市の図書館の庭、当府八幡宮社務所よりの所に万葉歌碑があり、これには天武天皇の曽孫桜井王と時の天皇との問答歌がきざまれている。この桜井王が遠江国の国司(今の知事に当る),として赴任された時、国内がよく治まるようにと庁内に祭られたのが、この神社の始めで、従って府八幡宮と称するのであると、社記に伝えられ、奈良平安時代のものと思われる社宝が現存する。桜井王の着任は、一説では元正天皇の養老三年(七一九)か同年頃と考えられている。また鎌倉時代には秋鹿氏が此の地に止って神主となり、江戸時代には神主と代官を兼ねて二百五十石を給せられた。 建物 東海道線磐田駅より北へ徒歩15分の所の右側に大きな鳥居があり、現在のものは文久3年(1863)のもので新門辰五郎によって建てられたものといわれる。その扁額は立派な青銅製で明暦3年(1657)云々と書かれているが今は掲げられていない。鳥居と並んで立っている灯籠はペリーが浦賀へ来航した年に建てられたもので高さ四メートル余、県内まれにみる大きなものである。その横の手水舎は天保12年(1841)のもの。真正面の社務所は昭和四年の建物である。 楼門は県指定の文化財で寛永12年(1635)の建物であり、昭和58年には屋根が建立当時のこけらぶきにふきかえられた。その奥の中門は面白い建物で楼門と同じ年に建てられたという記録があるが、現在のものはその後に建てられたものらしい。昭和63年、市の文化財に指定され、屋根がふきかえられた。本殿は元和3年(1617)二代将軍秀忠の末の娘(後水尾天皇皇后)の寄進によって再建されたという記録が残るが、現在のものはその後、当時の材料も使って再建又は修理されたものと思われる。拝殿は寛永12年(1635)再建という棟札があるがこれも同様で、その後当時の材料も使って再建又は修理を行ったものであろう。 社地 境内地並びに隣接森林合せて40,536平方メートル余、一部は古来伐採植林をしていない自然林であり、昭和60年2月28日県の「ふるさと自然(お宮の森・お寺の森)一〇〇選」に選ばれた。 特殊神事 大祭の二日目、おみこしの町内巡幸に先立って、神社東北の「お清水」の広場で「命の魚」の神事が行われる。 境内社 十五社あり、それぞれの歴史を有する。別に境内社に二社あり伊雑宮(弁財天併祭)は本殿西の少し高い所にあり、ことによると江戸時代の「お鍬様」に関係するのかも知れない。またその北方の東照宮は、もと御殿山に祀られていた社を明治初年当地に移したもので、今も御殿区との関係が深い。 社頭掲示板 |
府八幡宮 府八幡宮は、奈良時代に桜井王が遠江国司として赴任したとき国内がよく治まるようにと、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の三神を祭り建立したと伝えられる。大鳥居をくぐり参道を歩くと楼門、さらに奥の中門を経て拝殿・本殿へとつづく。 楼門は社記によると寛永12年(1635)建立。昭和58年に屋根が建立当時のこけらぶきにふきかえられた。入母屋造りで建物全体に深みと美しいさのある純和様建築様式の門である。県指定文化財。 中門は寛永12年に建立された後、再建されたと伝えられている。楼門が純和様建築であるのに対して中門は禅宗様式を採用しており対照的である。市指定文化財。 本殿は元和3年(1617)拝殿は寛永12年再建の記録があるが、その後当時の材料を使って再建又は修理されたものと思われる。市指定文化財。 尚、四万uの敷地は自然林に恵まれ、昭和60年県の「ふるさと自然(お宮の森・お寺の森)百選」に選ばれた。 磐田市教育委員会文化財課 社頭掲示板 |
府八幡宮 祭神 足仲彦命(仲哀天皇) 気長足姫命(神功皇后) 誉田別命(応神天皇) 由緒 応神天皇の曾孫、桜井王が遠江の国に国司として着任した時、国府の庁内に勧請されたのが始めであると伝えられる。 桜井王が着任されたのは聖武天皇の天平年間と言われているが一説では前代の元正天皇の養老3年(719)か同4年頃とも考えられている。建武年間以来秋鹿氏が奉仕し秋鹿家は後に徳川氏に仕えて代官を勤めた。 特殊神事として「命の魚の儀」がある。 本殿は元和3年(1617)徳川2代将軍の娘後水尾天皇の后東福門院が寄進再建された旨の棟札がある。 楼門には徳川3代将軍家光の寛永12年(1635)に建てられ現在「県指定文化財」で屋根はこけらぶきである。 中門も同時代に建立された記録がある。 鳥居は元和3年(1617)秀忠寄進の記録もあるが現在のものは文久3年(1863)に建てられたものである。 燈籠のうち最大のものは嘉永6年(1853)建立のものである。 境内とその社有地はおよそ11,000坪である。 社頭掲示板 |
府八幡宮 府八幡宮は、奈良時代に桜井王が遠江国司として赴任したとき、 国内がよく治まるようにと、建立したと伝えられています。 大鳥居をくぐり参道を歩くと、楼門、中門を経て拝殿・本殿へ と続きます。また、広大な敷地は緑豊かな森に囲まれています。 ≪静岡県指定文化財≫ 楼門(江戸時代) 昭和30年指定 寛永12年(1635)に建立された記録があります。入母屋造りで、建物全体に深みと美しさのある純和様建築の随身門です。 昭和58年に建立当時の柿葺きの屋根に葺き替えられました。 ≪磐田市指定文化財≫ 中門(江戸時代) 昭和62年指定 寛永12年(1635)に建立され、その後文化年間に再建された記録があります。楼門は純和様建築ですが、中門は禅宗様式であり対照的です。江戸時代の建築群の中では新しい技法を残す門です。 本殿及び拝殿付き幣殿(江戸時代) 平成2年指定 棟札によれば、本殿は元和3年(1617)、拝殿と幣殿は寛永12年(1635)に建立されました。本殿は三間社流造り、拝殿と幣殿は入母屋造りの建物です。拝殿と幣殿は正徳4年(1714)に再建され、今日に伝えられています。 なお、この他に、ふだんは公開されていませんが、磐田市指定文化財に、瑞花鳳鸞八稜鏡(奈良時代)・僧形八幡像(平安時代)・ 女神像(平安時代)があります。 平成18年3月 磐田市教育委員会文化財課 |
府八幡宮 府八幡宮は、天平年間(729〜748年)に遠江国司(現在の知事にあたる)であった天武天皇の曽孫桜井王(さくらいおう)が、遠江国府の守護として赴任された時、遠江国内がよく治まるようにと府内に奉られたのが、始まりです。 遠江国府は、最初に現在の二之宮・御殿地区に勧請(かんじょう)され、その後、見附地区に移転されるまでの間、一時、府八幡宮内に置かれていた、と伝えられています。 寛永12年(1635年)に建立された楼門(ろうもん)は静岡県の文化財に、中門・本殿・拝殿および 幣殿は市の文化財に指定されています。境内の建物の多くは、江戸時代に建造されたものです。 公式HP |
府八幡宮 天武天皇の曽孫桜井王が遠江國の国司として赴任された時、庁舎内に祭られたのがこの神社のはじめである。従って、府八幡宮と称し、奈良平安時代の社宝が現存する。また、鎌倉時代には秋鹿氏がこの地に止まり神主となり、江戸時代は代官も兼ねて250石を給せられた。境内には、桜井王と時の天皇の問答歌が刻まれた万葉歌碑がある。 静岡県神社庁 |
府八幡宮 ふはちまんぐう 静岡県磐田市中泉。 旧県社。中泉は遠江の国府所在地で、社は国府跡・国分寺と隣接している。国府八幡宮ともいう。国衙の奉斎した古社であった。 そのため磐田郡内の『延喜式神名帳』に所載する入見神社・御祖神社、須波若御子神社などの論社となっているが、明かにすることはできない。室町時代からは八幡宮を証する記録があり、足利・今川氏など領主。武門の歴代は社領などを寄せている。徳川秀忠が大鳥居を寄進し社殿は後水尾天皇の皇后東福門院の造立で、楼門はその時の建築である。祭神は足仲彦命(仲哀天皇)・気息足姫命(神功皇后)、誉田別命(応神天皇)である。例祭は10月2日で、國司の放生会といい、命の魚〔生魚)という鯉を神前の御清水(池)に放つ式がある。 神社辞典 |
縣社 府八幡宮 祭神 足仲彦命 氣長足姫命 誉田別命 伝へ云ふ、是地往昔國府の庁の所在地にして、天平年間、当時の府の長官遠江守櫻井王の赴任に当り、庁内に勧請す、国司の所祭なるが故に、府八幡宮若くは国府八幡宮と称すと、現に裏面に天平の文宇を記せる獅子頭を藏すといふ、建武年間、秋鹿左京亮朝治、神主に補せられしが。同元年12月、足利氏より、社領として、中泉郷并に当国羽鳥庄貴平郷を寄進し奉り、次いで今川氏代々先例に任せて社領を寄進せり、之れ等の文書十余三通今尚存す、慶長8年に至り、徳川家康改めて二百五十石を寄進す、諸社御朱印写に見えたり、但社記には、当時二百五十石七斗八升六合に、新田百石余を寄進せりと記せり、 「八幡宮領、遠江国豊田郡中泉村二百五十石事、並社中諸役等免除、任慶長8年8月20日、元和5年2月16日、寛永13年11月9日、先制之旨、永不可有相違者也、仍如件、 寛文5年7月11日」 元和年中後水尾天皇皇后東福門院、当社を御再建あらせられ、時の征夷大将軍徳川秀忠亦大鳥居一基を寄進せり、明治16年6月25日縣社に列せられ、是より先、同7年、淺間神社を合祀せしが、12年11月復旧す、社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他社務所、神庫等を具へ、境内1042坪(官有地第一種)あり、東海道名所図会に「社頭壮麗。境内廣し」といへり。 遠江國式内社摘考に云く「御祖神社、中泉村八幡なりといへども、未詳」 遠江国風土記伝に云く『須波若御子神杜、中泉八幡社中、有須波山之名」大日本地名辞書に云く「境内に須波山あり。式内須波社の旧跡にやと云へり」日本名勝地誌に云く、『遠江守櫻井王の私に創立せしものなるを以て、式内にあらず」。 明治神社誌料 |
御祖神社 卸祖は美於夜と訓べし○祭神詳ならず、 式社考云、中泉村ノ八幡宮也ト云フ、未詳」参考云、在淡海国玉神社同所、 類社 河内國高安郡御祖神社 神社覈録 |