岩田小学校南東に鎮座する。 崖の中腹を切り開いてあり。眼下の眺めはよい。集落より離れている。社殿は新装し境内に古色なし。光仁天皇のとき出雲大社より勧請と伝える。 引馬原と岩田原の中間に袖子ヶ浦入海あり、この入海を伊留美と言った。 |
岩田神社の由緒 祭神 大国主命 岩田神社創立は、宝亀2年(771)2月にして49代光仁天皇の御時、出雲国杵築宮より大国主命を勧請し、入見神社と称し奉る所以は当国引馬原の東に岩田ヶ原柚子ヶ浦入海あり、この入海を伊留美と称す。 故に入見神社と称し岩田原に設立せし処、延喜5年中入見神社は岩田原に鎮座するを以て、入見神社岩田大明神と号す。 遠海国延喜式内62座の内、式内社なり。 其神領之事 合四石五斗 右如前々被下候聞可□社務者也仍如件 慶長6丑 2月14日 伊奈備前守忠次 亦 永享4年(1432)室町幕府6代将軍義教は威を関東に示さんと東行した。従者は総勢六千余騎といわれ、岩田大明神はその道筋に当たるといわれている。 その折り従者常光院法印□孝は 打はぶき 飛び立けん白鳥の 鴛坂山ぞやすくこえぬる 飛鳥井中納言□□は 遠く見る すじの高嶺も白鳥の 鴛坂山を今日そこえける と詠んでいる。 社頭掲示板 |
入見神社 入見は伊留美と訓べし○和名鈔、(郷名部)入見、〇祭神葉山媛、長媛、(風土記)○在所詳ならず○惚國風土記四十六残欠云、遠江國盤田郡入見神社、圭田三十八束、雄略天皇2年戊戌11月、所祭葉山媛、長媛也、有神戸入見氏、巫戸数十宇、 式社考云、見附駅ヨリ十三四町西北加茂村(豊田郡也)ニ大潤寺ト云フ寺アリ、山號ヲ入目山(ニフモク)ト云フ、コレハ入見ヲ入目ト訛リテ、其地ヲ山号トセシナルベシと云り、 類社 尾張国知多那入見神社 神社覈録 |
郷社 岩田神社 祭神 大國主命 相殿 春日神社 祭神 武甕槌命 経津主命 天児屋根命 姫大神 当社は、宝亀3年、出雲國杵築宮を勧請、式内社入見神社なりといふ。其証として、明細帳は、「西は引馬原、東は岩田原に、其の海湾を袖子の浦と云、蓋し入見は入海の義なりと云ひ伝ふ」と記したるが、入見神社の所在に就いては、學者間未だ一定の説なし。 遠江国式内社摘考に云く、「入見神社、是は見付駅より十三四町西北にありて、加茂村といふ所あり、共村に大潤寺といふ寺あり、其寺の山号を入目山といへる由、入見を入目と誤おぽえて、入目山と号せしなるベし」遠江国風土記傅に云く、「入見社、賀茂村福生院寺中、有見目松、住僧近伐此樹、有神崇而夭死、又云、於見付町、有称見目之社、二所一未決」 特選神名牒に云く、「今按に注進状豊田郡匂叛村岩田神社を以て、本社にあてたれど、明証あるにもあらねば諾ひがたし、神社覈録に、式社考を引て云々、やゝ拠あるに似たり、云々」 然るに風土記傳は、当社を式内社淡海国玉神社の奮跡として云く、 「磐田明神社、云々、式内淡海国玉神社旧蹟、云々、此神瞰臨磐田海、応淡海國玉神社、郷人曰、以磐田社、 移見付国府、今惣社是也、云々」 元と朱印高四石五斗、除地高三石を有せり、明治6年3月郷社に列す。 社殿は本殿、雨覆、幣殿其他社務所、祓殿等を具備し、境内は450坪(官有地第一種)を有す。 明治神社誌料 |