国道1号の北に鎮座する。 往古は旧有玉畑屋村本祠山にあって、社殿は東面し朝日を受け麓に鳥居があつたが、古天龍鹿玉川の洪水で坂路大に崩れ登ることが困難となりこれを南側に改めたとも云えられている。 明治40年本祠山の神明宮を同村字宮廻、村社八幡宮境内(現在地)へ移転合祀した上郷社有玉神社と改称した。 旧地には現在は小祠将軍社の跡が残されるのみとされている。 有玉西町(日進機械の南)に将軍神社の小祠あり。 |
由緒 明治40年、当時の有玉村は世帯数380戸あり、地域内には郷社神明宮を初めとして村社、無格社合わせて12社があり、そのうち村全体で祭典を行う神社が3社、小部落で行う神社が9社あった。神社の多くは境内、社殿共に狭く神社の尊厳を保持しがたく、加えて祭典の繁雑さを訴える世論が台頭してきたので関係者協議の結果、1村1社に合併し、宏荘・尊厳なる社殿を建築して氏子の信仰と高の社会教化の中心にしようとして、明治40年9月10日、郷社神明宮を八幡宮境内に移転し併せて11社を合祀し、郷社有玉神社を称することにした。新社殿は大正2年に完成し、同年9月10日に御遷宮された。 昭和27年8月20日宗教法人有玉神社の認証を受け、静岡県神社等級規定により6等級神社と承認された。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
有玉神社 旧郷社神明宮は創立年代不詳、元禄16年再建の棟札あり、旧朱印高五石 旧長上郡式内五座の内朝日波多加神社と申伝あり、明治6年郷社に列せられる。 旧村社八幡宮は創立年代不詳、大正10年再建の棟札あり、旧朱印高十二石なり、 特殊神事流鏑馬は、徳川家康が大阪より帰陣の際、戦場での愛馬を寄進したことに始まる。例祭の神事として四百年の伝統を今に伝える。 當神社は明治40年、当時の有玉村三百八十戸余りの地域内に、郷社神明宮を初め村社、無格社合せて十二社あり、境内、社殿共に狭く又、祭典の繁雑さから、明治四十年郷社神明宮を八幡宮境内(当地)に移転し八幡宮、俊光将軍社等、併せて十一社を合祀、郷社有玉神社と称した。新社殿は大正2年完成、同年9月10日御遷宮された。 昭和27年8月20日「宗教法人有玉神社」の認証を受け、静岡県神社等級規定により六等級神社と承認される。 社頭掲示板 |
有玉神社 有玉神社の伝説 昔、天竜川河口近くに三千年を経るという赤大蛇が住んでいた。 坂上田村麿将軍が東征でこの地を訪れた時、美女に化けた赤大蛇と恋仲になり2人の間に子供が出来た。美女は将軍に子供を産むところを絶対見ないと約束させ、赤大蛇になって産む。しかし、将軍は思わず赤大蛇が子供を産むところを見てしまう。赤大蛇は将軍に子供を託し、川の底に戻ってしまう。 この子は成人し、俊光将軍といわれる武将になり再び父子で東征の命を受けこの地を訪れる。 その時、磐田の海が大荒れで困り果てるが、親(赤大蛇)から授かった「潮干の珠」を投げ入れると、荒れた海はスーッと引いて底に広い平野が現れた。この平野にやがて人が住み村が出来た。 ある年、毎夜東の方に美しく輝く光が見られるようになった。村人がその光を探すと、そこに一個の珠があった。その珠を祭ったのが有玉神社だといわれる。 御由緒・沿革 明治40年、当時の有玉村は世帯数380戸あり、地域内には郷社神明宮を初めとして村社、無格社合わせて12社があり、そのうち村全体で祭典を行う神社が三社、小部落で行う神社が九社あった。神社の多くは境内、社殿共に狭く神社の尊厳を保持しがたく、加えて祭典の繁雑さを訴える世論が台頭してきたので関係者協議の結果、一村一社に合併し、宏荘・尊厳なる社殿を建築して氏子の信仰と社会教化の中心にしようとして、明治40年9月10日、郷社神明宮を八幡宮境内に移転し併せて11社を合祀し、郷社有玉神社と称することにした。新社殿は大正2年完成し、同年9月10日に御遷宮された。昭和27年8月20日宗教法人有玉神社の認証を受け、静岡県神社等級規定により六等級神社と承認された。 公式HP |
有玉神社の流鏑馬 「家康公ゆかりの里」 有玉神社の流鏑馬 有玉神社の祭典で、現在も行われている流鏑馬は、およそ400年前、家康公が大坂の役から帰陣の際、戦場で乗った愛馬を寄進したことに始まるといわれている。 江戸時代には、浜松城主が毎年見物に来たといわれている。 平成25年3月 浜松市東区役所 社頭掲示板 |
郷社 有玉神社 祭神 天手力男命 天照意保比流売貴命 萬幡豊秋津姫命 社伝に云く、「当社は延喜式神名帳に戴する所の遠江国長上郡五座の内朝日波多加神にて、畑屋村(今有玉村)は波多加の訛伝なり、又社の西面に高山と称する字あるも、波多加山の訛伝云々」但し当社明細帳に「然れども、未詳」といへる如く、今■く、当社は式内社朝日波多加神社なりとは断定し得ざるなり、特選神名牒に、同社の候補として掲ぐるもの実に四、曰く蒲郡神立村蒲神明宮、曰く半田村朝日山六所明神、曰く有玉郡神明宮、曰く内野村神明宮、而して其の結文に至りて云く、共に明証あらざれば、今従ひがたし」と、されば猶以て不詳といふの外なし、さて当社創立年代詳ならすといへども、近世にては元禄19年再建のことありしと、社領は風土記伝に、「欠下(有玉村)大菩薩山神明社は、朱符之神田高六石」と見えたり、明治6年3月郷社に列し、同40年6月18日旧来の社号神明宮を改めて現社號とせり。 社殿は本殿、其他神饌所等を備へ、境内は675坪(官有地第一種)あり、社辺に石器、土器及古墳あり、太古人形の遺跡なるべし、 明治神社誌料 |