蒲神明宮
かばしんめいぐう 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大歳神社 遠江国 長上郡鎮座
   【延喜式神名帳】朝日波多加神社 遠江国 長上郡鎮座
   【延喜式神名帳】子倉神社 遠江国 長上郡鎮座

   【現社名】蒲神明宮
   【住所】静岡県浜松市東区神立町 471
       北緯34度43分1秒,東経137度45分5秒
   【祭神】天照皇大御神 (配祀)天手力男神 萬幡豊秋津師比売命
       豊受比売神 国之常立神 天児屋根命 天太玉命

   【例祭】10月14日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】清和天皇貞観年以前に創建
       貞観16年(874)従五位下(三代実録)
       天慶元年(938)蒲御厨を創設
       天正6年回禄
       明治6年3月郷社
       大正10年11月19日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「神明宮」と称していた
   【社殿】本殿神明造(外宮・内宮)
       拝殿・神門・神饌所・社務所

   【境内社】西之宮・厳島神社・稲荷神社・稲荷神社

浜松労災病院の西に鎮座する。
当社を大歳神社に比定する説、朝日波多加神社に比定する説がある。
明治神社誌料では当社を子倉神社に比定している。
藤原鎌足から10代目の子孫「藤原静並」は、伊勢神宮の神託により当地に移住・開拓し、開拓地を神宮に寄進、神宮の御厨「蒲御厨」となり、その荘官となった。
静並の子孫は当地に定着し「蒲氏」を名乗った。蒲氏は明治になるまで、当宮の神職を代々世襲した。


由緒

当神社は「蒲神明宮」と申し俚言は、ごんしんさまと称へ勧請は大同元年3月16日にして神位は三代実録に貞観16年5月11日正六位上蒲大神に従五位下を授くとある。往古は蒲大神と称し中古より蒲神明宮とす。天正6年正月と寛政5年12月の2回の災に罹り古書焼失す。しかれども鎌倉幕府以来の古文書39通を蔵す。旧御朱印260石並に新田高55石7斗余。明治6年3月郷社に大正10年11月19日県社に昇格す。境内に土推を祭るもの二つあり。一つは土の宮と一は高の宮と称す。伊勢神宮の規範に従って20年遷宮を行う。1月1日早旦お田打の神事を行う。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




蒲神明宮の御案内

静岡県浜松市神立町袖紫ヶ森鎮座
総社蒲神明宮
電話〈0534〉61-8591
郵便番号430
御由緒略記
御祭神 内宮 天照皇大神
    外宮 豊受皇大神
創立清和天皇(第56代)貞観年中以前
(今を去る約1,100年の昔)
沿革
当杜は伊勢大神宮より蒲家高遠祖大織冠藤原鎌足公10代孫越後守静並の勤請にして貞観16年正6位の下従5位の上を朝廷より授けられし古杜である。
静並公蒲24郷を開拓し,悉く神領となし,以て神明御厨と称した。
爾来物変り星移り幾多の変遷があったが,正遷宮その他の祭事は伊勢神宮を規範とし伝統と古事にならい連綿とつゝいている。
今川氏に至り神領を安堵され,豊臣秀吉,徳川家康ともに社領を寄進し、代々の将軍これを安堵し武家の崇敬篤きものがあった。
明治6年郷社に加列し、大正10年県社に昇格した。
秋の大祭には各町氏子たちのそれぞれ趣向をこらした屋台IO台が各町祭典奉仕の後、当杜の御夕祭(宵祭)に祭りばやしも賑かに鳥居前に集まり次々と境内にくりこみ拝殿前広場に集結する。一夜を親神様のもとで過した各町の屋台は,御礼祭当日の夕刻,親神様に暇乞いして再びおはやしを奏でながら、それぞれの町内に帰るのである。この祭典は毎年欠かさず行なわれているが、当社の祭典ならではの感が深い。
かくのように、当社は春風秋雨千載の今日に至るまで氏子崇敬者とともに神威は顯然としてその名を止めている。
なお、わが国歴史上重要文献として、鎌倉、室町時代将軍家よりの下知状等、古文書39通が現存している。
御例祭 10月15日・16日
境内坪数 約2800坪
氏子数  約3,000戸
御神事
1月1日  元旦祭
1月15日  成人祭
1月28日  境内秋葉社祭
左義長(正月飾焚上)
2月17日  祈年祭
2月吉日  境内稲荷社祭
6月15日  境内津島神社(天王様)祭
6月17日  境内厳島神社(弁天様)祭
6月30日  夏越大祓
8月1日  夏まつり
例祭
10月15日  御夕祭
10月16日  御本祭
11月15日  七五三詣祭
I1月吉日  新嘗祭
12月31日  大祓

由緒書



蒲神明宮

創建は大同元年、伊勢皇大神宮の勧請であると言われる。平安時代初期のことである。
三代実録の貞観16年5月11日の条に「遠江国蒲大神に従五位下を授く」とあり、これによって国史現存と言う。蒲氏の祖越後守藤原静並公霊験により蒲二十四郷を開発、これを皇大神宮に寄進神宮御厨となる。
鎌倉幕府以来の古文書を保存しなかでも蒲冠者範頼の妻吉祥子を地頭代職に任命した北条時房下文は有名である。
御朱印の石高 二百六十石
明治6年郷社
大正10年県社

社頭掲示板



蒲桜の由来

今から八百年の昔、この地で育てられた源氏の貴公子、蒲冠者範頼は兄頼朝の挙兵に応じて関東に向かう時、大好きだった桜の苗木持参して自分の城に植えた。
これを蒲桜という。埼玉県の北本市にあって、石戸の蒲桜ともいう。
 範頼公は平家追討の総大将として上洛の途上、三重県鈴鹿市の石薬師に立ち寄り、戦勝祈願した。その時、蒲桜で出来た鞭を逆さに立て、「もし戦さに勝ったならきっと生きよ」と大地にさした。
幸い、源氏の大勝利、この蒲桜が芽を吹き、それが今に至ったと伝えられる。 この度、石薬師の皆様のご好意によって、この蒲桜の里帰りが実現した。どうか、可愛ってください。
浜松市東区役所

社頭掲示板



小山みい顕彰の燈篭

文政4年に生まれ、機織に秀でた才能をもっていたみいは、木綿の縞織を研究して、遠州織物を地場産業に定着させた。
従来の織物は、農家の副業的存在だったが、みいは、協力者と共に永隆社を創設し、機織を専業化した。また同時に、製造・販売、弟子の養成にも尽力した。
明治時代に一女性を称えた文章と共に神社に燈篭を建てるのは稀なことである。
みいの墓地は、中島町龍島院にある。
浜松市東区役所

社頭掲示板



蒲神明宮御由緒

一 創建年月日不詳
一説に旧浜松市内で最も古い神社と言い一説には大同元年西暦806年とも言う
一 御祭神 内宮 天照坐皇大御神 相殿二座
一 御祭神 外宮 豊受比売神 相殿三座
一 沿革 古くは蒲大神が鎮座 三代実録貞観16年西暦874年に従五位下の神階を授くとあるこれを国史現存という。その後藤原鎌足公十代の孫蒲家の祖藤原静並公が伊勢の御神託によって当地を開拓しその土地を御厨として神宮に寄進して神宮を勧請した。以来神宮に倣い二十年毎の式年遷宮を続ける。
元県社現在静岡県神社庁二等級神社
一 摂社 大蒲町鎮座 八柱神社
一 末社 伊雑官 高宮 土宮 西宮神社
     津島神社 厳島神社 稲荷神社二社
一 伝説 静並伝説 蒲桜伝説
一 例大祭 10月 庭上の座礼による
一 文化財 歳旦祭の御田打ぢ 例大祭の御神楽

社頭掲示板



郷社 蒲神明宮

祭神 内宮 天照皇大御神
相殿 天手力男神 萬幡豊秋津師比売命 國常立神
祭神 外宮 豊受比売命
相殿 天児屋根命 天津彦々火瓊々杵尊 天太玉命
創立年代詳ならず、但し当社の縁起に云く、
「遠江大掾静並といへるは、越後の産なり、或る時、伊勢神廟に謁し、子孫の栄を祈る、時に小蛇あり、社内より来りて。静並の狩衣の袖を超え、又社内に入る、静並乃ち衣袖を見れぱ、蒲発本願主の字あり、静並煉然として思へらく、正に是れ霊験の致す所なりと、因つて人に蒲と称する地ありやと問ふ、其人答へて云ふ、海路に多く蒲草を生ずる地あり、甚だ膏■なりと、静並直に伊勢を発し此地に来り。溝渠を掘り、田畑を開拓すること二十四ケ村の広きに至る、人民大に喜ふ、是に於てか此社を創立す、云々」(日本名勝地誌)
と、近世の學者、当社を以て、貞観16年5月11日、従五位下を授けられ給ひし蒲太神に充て、又式内社に擁するものあり。
神名帳考証に云く「式外旧社、蒲田神(三代実録貞観16年5月11日授遠江国正六位上蒲田(田一作太)神従五位下)信友云、曳馬拾遺に、今長上郡植松村の北二町を経て、神立(一作館)の御室に内外の大神を祭れり、この邊の村々、すべて蒲と云ふ、東鑑十の巻に、遠江国蒲厨とあり、蒲冠者範頼ゆゑありて、此地に長り紛ふよし記せり」
遠江国風土記傅に云く、神立、神館也、云々、神明社、云々、所以号神立者、准伊勢国度会多氣之神痔、延暦儀式帳曰、天萬豊日天皇(孝徳)御世、初大宮司領、称神痔司、中臣香積連須氣仕奉支、是人時仁度曾山田原造御厨弖改神痔止云、名号御厨、按於蒲郷者、伝旧名号神立也、云々、昔蒲御厨二十四郷之惣社、称蒲大神宮、号蒲者、昔蒲生之地也、藤原静並者、苅蒲為里、始斎大神宮、祭日准伊勢内外宮、三代実録曰、貞観16年5月11日、遠江国正六位上蒲大神授從五位下、神鳳抄云、遠江國(内宮)蒲御厨(供祭三十石五百六十町)、朝野群載云、遠江国牒、伊勢大神宮司衛來牒一紙被戴、蒲御厨一処、子細状云々、東鑑云、建久6年3月云々、御神領遠江国蒲御厨云々、
古証文(神主所持数十通)
下 蒲御厨 可早免除惣検校清成免蒲上下 田畠在家並加徴米在家田米等事
右且任先例、且依勤厚、可令免除之状如件
治承4年12月13日
源朝臣判
着到
遠江国蒲御厨惣検校清保件方、唯致御祈祷之忠節畢、御勤仕之状如件
暦応2年8月23日源清保
承了判」
日本地名辞書に云く、「国史に出つる蒲大神に引きあつるは疑ふべし、痔の神明は式内にあらず、国史に特載せざるを例とす、御厨の齊場に過ぎざれば也、蓋蒲大神の延喜式に見えぬは、名の変りたる耳、長上郡朝日波多加神社と、子倉神社の真所在詳ならねば、蒲大神は即此二社の一に居る歟とも疑はる」
とにかく当社にして、国守地頭の崇敬厚く、随つて文書の所藏少からざりしが、天正6年回禄の災に罹り、失ふ所甚だ多かりしと、然とも尚三十九通を残し、徴古文書等をも改載せられたり、旧朱印高二百十石、外に新田高五十五石七斗六升余を有し、地方有数の大社たり、諸社御朱印写に云く、 「神立神明領、遠江国長上郡蒲郷内社二百六十石事、任慶長8年8月20日、元和3年3月17日、寛永13年11月9日、先判之旨、永不可有相違者也、仍如件
寛文5年7月1日」
明治6年3月郷社に列せらる。
社殿は内外両宮の本殿、及拝殿、其他宝蔵、社務所、詰所等を備へ、境内2860坪(官有地第一種)を有す。

社頭掲示板



蒲神明宮

静岡県浜松市神立町。旧県社。
二つの本殿をもち、内宮に天照皇大御神、外宮に豊受比売神を祀る。『神鳳鈔』『朝野群載』『東鑑』などに見える伊勢の内宮御領たる遠江国蒲御厨の地にあたり、御厨に発達した神明宮である。神立も、伊勢神領かんだちを意味する神館(神寺)かと思われる。江戸幕府より朱印領二六〇石を安堵され、御厨二四郷の総社として崇められた。例祭10月15、16日。1月1日には御田打祭がある。

神社辞典



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