与進小学校南に鎮座する。 元は天王宮・天皇宮・大歳神社の3社であったが合祀されて一社となった。 景行天皇40年日本武尊御東征の年、この地の首長御久和神人が鎮守氏神として信濃国須羽天王社を遷座したとする。 |
由緒 天王宮 当社は、景行天皇40代事代主命が須羽に天王社を建立し、祖先を祀るに創りこの霊殿を日本武尊東征の年、この地の首長御久和神人この処に遷座したものである。坂上田村麿が東征に出陣の際、武運長久を祈願したとも言われ、遠州一園の天王社の総社と言われている。 大歳神社 当社は延喜式内社であり、約千二百年前、醍醐天皇の御代に編寡された「延喜式神名帳」に遠江国長上郡小一座大歳神社とある。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大歳神社 御創建 創立の年月は詳でないが、元来天王宮、天皇宮、大歳神社の三社に別れて御鎮座になっていたが、後に合祀され、更に当社氏子四町の氏神を合祀して現在に至る。そして、その総称として天王宮大歳神社と申し上げている。 ■御祭神・御神徳・御由緒 天王宮 ●御祭神 素箋鳴尊(牛頭天王)、櫛稲田媛命、大己貴尊、事代主命伊邪那岐尊、伊邪那美命、武甕槌命、経津主命、太田多根子命 ■御神徳 金神方災除、諸病疫病除、諸厄除、開運、家内安全 ●御由緒 当社は、景行天皇四十年事代主命が須羽に天王社を建立し、祖先を祀るに創り、この霊殿を日本武尊東征の年、この地の首長御久和神人この処に遷座したものである。坂上田村麿が東征に出陣の際、武運長久を祈願したとも云はれ、遠州一園の天王社の総社と云はれている。 天皇宮 ●御祭神 長慶天皇、亀山天皇、後宇多天皇、後二条天皇、後醍醐天皇、後村上天皇 ●御由緒 長慶天皇神師霊及び南朝五皇統天皇の神霊をお祀り申し上げると伝えられる。 大歳神社 ●御祭神 大歳神 ●御神徳 五穀豊穣 ●御由緒当社は、延喜式内社であり、約千二百年前、醍醐天皇の御代に編寡された「延喜式神名帳」に遠江国長上郡小一座大歳神社とある。 ■末社・境内社 末社 御久和稲荷社 ●御祭神 蒼御魂神、春埜命、伊雑皇命、伊佐波留命、大山祇命、御久和大神 ●御由緒 本社午頭天王を須羽より奉遷したのが御久和神人であるとの記述あり。その神縁により末社に奉斎せり。 又、蒼御魂神をはじめ合祀諸神を奉斎し、一生に一度の願いをお聞き下さるとのいい伝えあり。 境内社祖霊社 ●御祭神 大歳神社氏子崇敬者の祖霊 ●御由緒 当社氏子区域では、明治維新の神仏分離令により全ての寺院を廃した。 故に氏子中には、神道家が大半を占めている。その為、氏子の祖先或は、当社縁りの崇敬者の祖霊を奉斎し、おまつり申し上げている。 小麦祭 当神社の例大祭は一名「小麦祭」と申し、遠州一円の金神方災除、諸病疫病除のお祭です。 当社主祭神素戔鳴尊は又の名を牛頭天王と申し上げ諸災除の神として信仰されて居ります。 神代の昔、牛頭天王は四天大王、八大将軍を引き連れ、南蛮国に住む邪悪の根源、金神を征伐すべく出兵しました。長旅と過労、食糧不足で将兵は次々と倒れ、戦いは苦戦となりました。この時、土地の人蘇民将来が兵糧として小麦を奉納してくれました。これに依って、天王軍は勢力をとり戻し討伐に成功し、金神も降伏して「以後お天王様のお名前がありました時には決してお手向い致しません」と約束したと云われます。この故事に倣い、氏子崇敬者は例大祭迄に小麦を奉納し、御神符を受けて門口にはり諸厄除を祈ります。 天王の花火 関ケ原の戦後、敗者西軍の武将真田幸村の一子に大助がいました。大坂夏の陣にて戦死したとありますが、社伝によれば当社々家石津家に入り余世を送ったとされ、それ以後、石津家の家紋は真田家の裏紋(左巻雁)に改められ今日に至っています。 その一族が時代の新兵器としていた痕火(煙)火薬(地雷火)が当神社の花火の起源だと云われます。 お天王様が荒神だから、その威勢を付ける為、爆竹をはざすという目的で密かにその製法を受継ぎ伝えました。昭和初期迄は、氏子の家の長男のみを集め、養子に行く可能性のある次男、三男を除いてこの花火を自ら作り、その秘法を外部に漏らさなかったと云われます。 尚、明治二年明治天皇東京遷都の折、浜松大米屋旅館の前で当時遠州報国隊の先覚者の指導の下、打揚げ花火のお迎えを催し、木杯金一封を下賜され、遠州十大名物の筆頭に格付けられた天王の花火は、戦時中でも一度もとり止める事なく受継がれ八月の例大祭には数千発の花火で夜空を色彩ります。 又、平成二年より梨子花火(手筒花火)も復活し、例大祭、正月元旦に境内で奉納されます。 社頭掲示板 |
大歳神社 当社は、景行天皇40年、事代主尊が須羽に天王社を建立し祖先を祀るにはじめ、この霊殿を日本武尊が東征の年、この地の首長の御久和神人が、現在の場所に遷座したと伝えられる。また、坂上田村麿が東征に出陣の際、武運長久を祈願したとも伝えられる。大歳神社は延喜式内社で約1300年前に存在した神社であり、文化3年の秋、天王宮、天皇宮と大歳神社が同一社に祀られるようになった。なお、明治維新の神仏分離令により全ての寺院が廃され、氏子4町は大半が神道家で占められている。そのため祖霊殿、霊舎が存在する。 社頭掲示板 |
大歳神社の由来 当神社は延喜式内社で約1300年前に存在した神社であり、文化3年の秋、天王宮、天皇宮と大歳神社が同一社に祀られるようになりました。 なお、明治維新の神仏分離令により全ての寺院が廃され、氏子4町は大半が神道家で占められており、そのため祖霊殿、霊舎が当神社には存在します。 御創建 創立の年月は詳ではありませんが、平安時代から時を繋いでいます。 元来「天王宮」 「天皇宮」 「大歳神社」の三社に別れてご鎮座になっていたが、後に合祀され、更に当神社氏子四町の氏神を合祀し現在に至ります。そして、その総称として天王宮大歳神社と申し上げております。 天王宮 御由緒 当社は、景行天皇四十年事代主命が須羽(すわ)の地に、天王社を建立して先祖を祀り、この霊殿を日本武尊東征の年、この地の首長御久和神人がこの処に奉遷したものである。坂上田村麿が東征に出陣の際、武運長久を祈願したとも云はれ、遠州一円の天王社の総社と云はれています。 天皇宮 御由緒 長慶天皇神師霊(かみふつみたま)及び南朝五皇統天皇(なんちょうごこうとうてんのう)の神霊をお祀り申し上げると伝えられています。 大歳神社 御由緒 当社は、延喜式内社であり、約千三百年前、醍醐天皇の編寡された「延喜式神名帳」に遠江国長上郡小一座大歳神社とある。 小麦祭 当神社の例大祭は別名「小麦祭」と申し、遠州一円の金神方災除、諸病疫病除のお祭です。 当神社主祭神素戔鳴尊は又の名を牛頭天王と申し上げ疫病厄病除を始めわけても金神方災除の神として信仰されて居ります。 神代の昔、牛頭天王は四天大王、八大将軍を引き連れ、南蛮国に住む邪悪の根源、金神を征伐すべく出兵しました。長旅と過労、食糧不足で将兵は次々と倒れ、戦いは苦戦となりました。この時、土地の人蘇民将来が兵糧として小麦を奉納してくれました。これに依って、天王軍は勢力をとり戻し討伐に成功し、金神も降伏して以後牛頭天王様は「蘇民将来の名のある家は疫病、厄病をはじめ諸災難より守護する」と約束したと云われます。 この故事に倣い、氏子崇敬者は例大祭迄に小麦を奉納し、御神符を受けて門口にはり諸厄除を祈ります。 天王の花火 関ケ原の戦後、敗者西軍の武将真田幸村の一子に大助がいました。大坂夏の陣にて戦死したとありますが、社伝によれば当社々家石津家に入り余世を送ったとされ、それ以後、石津家の家紋は真田家の裏紋(左巻雁)に改められ今日に至っています。 その一族が時代の新兵器としていた痕火(煙)火薬(地雷火)が当神社の花火の起源だと云われています。 お天王様が荒神だから、その威勢を付ける為、爆竹をはざすという目的で密かにその製法を受継ぎ伝えました。昭和初期迄は、氏子の家の長男のみを集め、養子に行く可能性のある次男、三男を除いてこの花火を自ら作り、その秘法を外部に漏らさなかったと云われます。 尚、明治二年明治天皇東京遷都の折、浜松大米屋旅館の前で当時遠州報国隊の先覚者の指導の下、打揚げ花火のお迎えを催し、木杯金一封を下賜され、遠州十大名物の筆頭に格付けられた天王の花火は、戦時中でも一度もとり止める事なく受継がれ八月の例大祭には数千発の花火で夜空を色彩ります。 又、平成二年より梨子花火(手筒花火)も復活し、例大祭、正月元旦に境内で奉納されます。 公式HP |
「家康公ゆかりの里」 大歳神社の弓道 室町時代末期に、日置弾正の創めた弓道の日置流は近江の吉田家に伝わり、古典的な弓術を形づくった。 駿河、遠江、三河は家康公の生育の地として、軍備に力を入れ、百姓、町民まで張り弓を持つことが許された。 平成25年3月 浜松市東区役所 社頭掲示板 |
大歳神社 大歳は於保止之と訓べし〇祭神明か也 式社考云、神立村ナル牛頭天王也ト云フ、未詳、 類社 山城國乙訓郡大歳神社の條見合すべし、 神社覈録 |