椎ヶ脇神社
しいがわきじんしゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】猪家神社 遠江国 長下郡鎮座

   【現社名】椎ヶ脇神社
   【住所】静岡県浜松市天龍区二俣町鹿島 1-14
       北緯34度51分11秒,東経137度48分9秒
   【祭神】闇淤加美命 豊玉比売神
   【例祭】1月中旬日曜日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】慶長7年(1602)徳川幕府朱印高二十石
       明治6年3月郷社
       同40年3月5日神饌幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造柿葺
       拝殿・神門・社務所

   【境内社】田村神社・水神社

天竜川南岸の崖の上に鎮座する。
天龍川大氏神と唱えられている。
延暦20年(801)田村(利仁)将軍、東征下向の際、天龍川の洪水に会い、土民川舟を造り渡河し得たが、将軍これを喜び鹿島椎ケ脇山に水神の祠を勧請。帰京後当神社へ鬼神丸となづけた刀を奉納する。後、ここに将軍の霊祠を建立という。
社宝として太刀銘金字で鬼神丸と記された、長二尺五寸の太刀がある。


椎ヶ脇神社

郷社椎ヶ脇神社由緒記略
郷社椎ヶ脇神社は闇於賀美神豊玉姫神を斎き奉り合せて天照皇大神豊受大神彌都波能売神を奉祀す。天龍川の河畔なる鹿島の丘上に鎮座し給ふ。水利舟楫守護の大神として古より神威灼然に明治5年公には郷社の列に加へられ郷民は更なり大方の尊崇景仰を纏め給ふことまことに外所に超えたり。
延喜の制遠江国長下郡四座の内なる猪家神社は即ち此の御社に当れるゆえよし既く有識の人の間に唱へられ公にも亦しか名されてそ今に至れる。
御社の名の古今と違へるは長き間の世の移ろい淵瀬も定めぬ河沿の地の名の変れるが任に長下の郡は夙く合わられて旧き名となり猪家の称謂は河の名の鹿川の訓と会ひて何時しか猪川と記され更に又椎川の文字にも替へられて竟には御社の御名も椎ヶ明神椎ヶ脇明神などの称と共に今の御名をこそ称へ奉るに至れるなりけれ。
そゝり立つ神域の懸崖の下を流るゝ天龍の大河はそのかみ大天龍小天龍など名も高く滝鳴る流れは濶く急く天つみそらの中川の称さへいみじく淵瀬定まらで懸梁かくべくもあらず旅人どもが往くさ来さ身をば浮木の思して船渡りしたりと伝ふるもゆゝしく一度河水の溢るれば逆巻き寄する激浪は堤塘を損ひ田畑を浸し去りて其の耗も測り知られぬ慮の外なる例も稀々にてはあはれ郷民を挙り所治むる職に皆一つ心に尊き大神の御徳を被り持ちて常に治水の謀を廻らし功績をさめし心尽の蹤も今に著く崇ひ仕へ奉れる武家地頭等が内には神地寄せ奉り宮殿へ琢きたて浅からぬ報賽の真心を捧げ奉れる事どもぞ世々の史には見えたる。灼然なる神威の御光を仰ぎては河沿の郷々村々さては遠き近き数多所に大神の分霊斎き奉り御社建て奉りて遠長に崇ひ奉れるら鮮からずなし。
今年皇紀2600年のめでたき歳を迎へ天地と栄ゆる大御代の御隆をこと寿くなへに天の中川流れ絶えせず永久に幸へ給ふ高き尊き大神の御徳を称へ奉り広き洽き御恵の露を被り来にし世々の御跡の縁の條々をかつかつにも記し叙て、今を見し後の記念と是を碑に彫り留めつるになり。
昭和15年11月23日
従五位高橋萬次郎識

社頭掲示板



椎ヶ脇神社由来

椎ヶ脇神社は、桓武天皇の延暦20年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂(758−811)が陸奥地方の蝦夷反賊の征伐のため下向の折、天竜川が洪水氾濫し、磐田の海と重なって大海となった。東岸(野部・広瀬)に渡ることも出来ず困っていた。その時、土人(鹿島に住んでいた昔の人)が筏を作り将軍を渡したところ、大変喜ばれこの地に減水を祈り「闇於加美神」を祀り給わった。これが現在の椎ヶ脇神社祭神である。
尚、伝承によれば、椎ヶ脇神社の呼称は、往古猪家神社とも呼んでいた。この神社の北側には、天竜川の深淵があり、その断崖絶壁の上に大木の椎ノ木があり、これから椎ヶ淵と称し淵に臨んだ神社から椎ヶ脇神社と転称したとも言われる。
古来、椎ヶ脇神社は天竜川の水利を守り船の安全を保ち、堤防の破損を免れ流域の大氏神として水害多き村々に御分霊を紀ってきた徳川幕府から慶長7年(1602)伊奈備前守より、神田朱印高二十石を寄進された。
又、天正19年(1591)浜松城主堀尾六左衛門光景が、宮奉行中村宗助と代官池田忠左右衛門に命じて再建させた本殿は、総ケヤキ造り、桁行1.8m、長さ3.96m、梁間2.5m、棟高5.4m、軒高2.89mである。
神社は、明治5年12月10日郷社に列せられ、明治40年3月15日神饌幣帛料を供進される神社として指定された。

社頭掲示板



大久保彦左衛門の『詫状文』

徳川家康と武田信玄が、北遠の地ではげしい攻防戦を展開していた天正年間のことである。
家康の一の家来、大久保彦左衛門も主君に従ってこの戦いに参陣していたが、徳川にとって形勢は大変に不利であった。
そこで彦左衛門は、天竜川の断崖に建つ霊験あらたかな椎ヶ脇神社に詣で、勝利祈願の祈とうを申し出た。すると神官は、心よくそれをひきうけて社殿にこもり、椎ケ脇大明神に徳川勝利の祈りをささげた。にもかかわらず、この戦いは大敗したので、彦左衛門ほ大いに憤慨して、
「椎ヶ脇神社の神官は、あてにもならぬやつじゃ。役にもたたぬ男じゃ、」
と言って、大変に神威を傷つけてしまった。
主君家康の身を案じている彦左衛門のもとに、その時、朗報が入ってきた。
「殿さまは天竜川を筏で越されて、無事浜松の城へもどられました」
彦左衛門は大変に喜んで、
「ああ、神官の祈願のおがげであった、椎ヶ脇大明神の霊験のたまものであった。そうか。殿はご無事であられたか」
と、うれし涙をはらはら流したという。
その後、天正8年に、大久保彦左衛門は、椎ヶ脇神社の神官にあて、『詫状文』を書き、社殿造営の資金をも献じたという。
この『詫状文』は、今も残されているという。
(『ふるさとものがたり天竜』より)

社頭掲示板



猪家神社

猪家は井氣と読り〇祭神詳ならず
式社考去、鹿島村ナル椎川脇大明神ナリ、(参考同)稚河ハ猪川ナルベシ、脇ハ川ノ脇ナルユエ力、未詳、○伴信友云、川を加とのみいへるは、駿河又近江國甲賀郡鮎川、(アユカ)伊勢国員弁郡石川、(以之加)又内営儀式帳に、伊久良賀波宮を伊久良賀ノ宮、なほ例あり、この社は猪川(シゝカハ)の義にて、シゝカてふ川の名によれるが云々と云り。

神社覈録



郷社 椎ケ脇神社

祭神
 闇淤加美命 豊玉比売命
合祭 天照皇大神 豊受大神 (神明神社) 菊理姫命(白山神社) 彌都波能売神(水神神社)
遠江國風土記伝に、当社を以て猪家神社と断ずる能はすして、「未考」の二字を注したりといへども、式内社摘考に当社なりと断定したるは、後世の學者の是認する所となり、皆当社を以て式内社猪家神社とせり、名称の解に付いては、定説と認むべきものなしといへども、摘考に「椎川は猪川をいふなるべし、脇は川の脇にある故にいへる歟、未詳」といひ、考証に「川を加とのみ云へるは、駿河又近江國甲賀郡鮎川(アユカ)云々、此社は猪川の義にて、しゝかてふ川の名によれる歟、又若狭国遠敷郡熊川をくまが云々」といへるは或は然らん、傅へ云ふ、延暦10年田村利仁將軍、東夷征伐の為め下向の時、天龍川氾濫して渡るを得ざりしを、土民筏を作って将軍を渡す、時に将軍自ら此地に水神を勧請して、水厄の庶民に及ぼさざらんことを祈る、之れ即ち当社の創立とすと、将軍凱旋の時、当社へ鬼神丸の太刀を奉納す、古来國守地頭の崇敬厚く、遠近の帰依社なるが、殊に天龍沿岸の住民深く帰依して、皆分霊を奉祀す、社領は二十石、慶長7年の寄連状に云く、
「遠州長上郡匂坂上村推ケ脇神領之事
合二十石也(墨印)
右御寄附之趣旨者、寺谷並在々新田井水満足、殊無水損、依当霊神守護、為土地堅固者也、神御子、抽精誠懇祈、郡中繁昌国家安全、可被祷者也、仍如件
慶長7年寅卯月20日、
伊奈備前守忠次(花押)
椎ヶ脇 孫丞殿
明治6年3月郷社に列せられ、翌7年1月神明社以下を合祀す、
社殿は本殿、雨覆、其他輿殿等を具備し、本殿は天正17年、地頭堀左衛門尉光景の再建たり、境内は1038坪(官有地第一種)を有し、宮山の丘陵上にありて、巨檜老松天を覆ふ、社頭に出でて遠く望めば、信州の諸山巍巍として吾れに対し、俯瞰すれば天竜川脚下を走る。

明治神社誌料



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