天浜線の宮口駅の北側にある古墳の上に鎮座する。 延喜式多賀神社に比定されているが、長谷神社、若倭神社に比定する説もある。 |
由緒 明徳年間(1390年)足利義満の時代に修造された。 元和3年(1617年)二代将軍徳川秀忠の時代に修復された。 元禄12年(1700年)五代将軍徳川綱吉の時代に大石佐五兵衛氏が社人となった。 安永 8年11月(1780年)十代将軍徳川家治の時代に修復された。 寛政 9年9月(1797年)十一代将軍徳川家斎の時代に稲荷神社若宮の守護として末社が建立されこの後稲荷大明神が稲荷神社と称されるようになった。 明治39年9月(1906年)村社稲荷神社社殿並びに亘殿が再建された。 明治45年4月(1912年)勅令第96号により明治45年 3月31日を以って神饌幤帛料の供進神社に指定された。 昭和56年11月(1981年)拝殿及び亘殿並びに手水舎が再建された。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
六所神社 1.神社名 六所神社(旧郷社) 昔麁玉郡宮口村・新原村・大平村・堀谷村・灰木村の5ヶ村を包含した大氏神様であります。 2.御祭神並びに由緒 底津綿津見神 底筒之男命 中津綿津見神 中筒之男命 上津綿津見神 上筒之男命 此の6柱の大神は神世7代伊邪那岐の大神、中つ瀬に降り、禊ぎ給りてなりませる神々にして、国造りされた御祭神であります。 昔、多賀神社とも申し伝えられて、遠江国式内社62座の内の1社でありまして、明治40年9月から昭和20年まで県より幣帛供進使が参向しました。 社頭掲示板 |
興覚寺後古墳 前方部を西、後円部を東に向けた全長33m、後円部の高さ約2mの前方後円墳です。 後円部の中央には使者を葬った石室があり、南側に入口を設けていますが、このように横から入ることのできる石室を横穴式石室といいます。 石室の床には玉石が敷かれ、副葬品として直刀、鉄鏃、馬具、菅玉、須恵器が発見されました。 これらの副葬品や石室の形態から、約1400年前頃の古墳時代この付近で最も早く横穴式石室をつくった古墳であろうと考えられています。 昭和62年8月 浜北市教育委員会 社頭掲示板 |
多賀神社 多賀は假字也○祭神詳ならず○在所分明ならず 式社考云、多賀、長谷、若倭三社ハ、宮口村ナル六所大明神ニ摂スト云フ、(参考同) 類社 近江國犬上郡多何神社二座 神社覈録 |
六所神社 遠江六十二座式内神社の一社であり、麁玉郡多賀明神であると云う。 明治6年、郷社に列せられる。 尚、明治5年の社記に「古若倭神社」と申伝え御座候の記がある。 静岡県神社庁 |
郷社 六所神社 祭神 底津海津美神 中津海津美神 上津海津美社 底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命 相殿 稻荷神社 祭神不詳 創立年代詳ならず、但し社傅には、当社を以て、式の多賀神社(麁玉郡)に擬す、然れども、当社が式杜たる多賀神社なりとするは、其証極めて薄弱にして、學者殆んど顧みす、只僅かに、遠江国式内社摘考に、「多賀神社長谷神社、若倭神社、右三社は、宮ロ村にある六所大明神に、右の三社を摂すといへる説あれど、其証を得ざれば信せられす」とあるのみ、元と除地高五斗八升を有し、風土紀伝に、「六所大明神、除地高五斗八升、社在御屋敷」と見えたり、明治6年3月郷社に列す。 社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神饌所を備へ、境内は338坪三合(官有地第一種)を有す、同8年9月、稲荷神社を合祀す。 明治神社誌料 |