赤佐幼稚園北に鎮座する。 ゆるやかな傾斜地にあり。広い境内と叢林を有する。 |
於呂神社 延喜式内郷社於呂神社 御祭神は天津日高日子穗穗出見命 別名 天津火火出見尊です。 天照皇大神の御子瓊々杵尊が御父、木花開耶姫が御母。 九州高千穂峰に崩ぜられ御陵は今日向国菅ノ口日高山に上陵せられ国幣大社鹿島神宮です。 徳川幕府は遠江国鎮守として御免勧を許可され勅願により勅使を伺候御祭を奉じ我が国数少ない神社です。 敬白 注 延喜とは1300年以前の氏神の事をいう 社頭掲示板 |
於侶神社 於侶は假字也〇祭神詳ならず○柴本村に在す、今豊田郡に属す、(式社考)例祭 月、日 社領 神社覈録 |
郷社 於呂神社 祭神 天津日高日子穂々出見命 品陀別命 創立年代詳ならす、但し当社は延喜式内社にして、当時小社に列せられ、神名帳麁玉郡於呂神社と見え、又遠江国式内社摘考に、 「於呂神社、柴本村に、於呂大明神といへるあり、是なる事明けし、然るに柴本村は豊田郡なり、廷喜式には豊田郡なけれぱ、延喜以後置れし新郡なり、麁玉郡其他数郡をさきて、豊田郡を置れしと見ゆ」 と見えたり、柴本は赤狭ともいふ、当社が式内社なることは、是亦衆口一致する所たり、寛永2年9月再建のことあり、社領は、風土記伝に、「於呂明神、走湯権現、二社朱符之神田高十一石七斗」といへり、明治6年3月郷社に列す。 社殿は本殿、拝殿、其他神饌所、雨覆等を具備し、境内は1215坪(官有地第一種)あり。 大日本地名辞書に云く「風土記伝に、於呂明神は、麁玉川の河伯蛇神を祭ると云ふも、古言に蛇を哀呂とありて於呂とはなし」 明治神社誌料 |