|
式社名は「オホセチ」あるいは「タイセチ」と読まれたか。 桜の名所の三岳山の頂上付近に鎮座する。この地は宗良親王ゆかりの三岳城(典型的な山城)の三の丸になる。 近世は「三嶽山権現」と称されていた。 当社を奥宮、四所神社を里宮とする説もある。 社殿はコンクリート製。 |
|
三岳城跡 国指定史蹟(昭和19年3月7日) 当城は三岳山の山頂にあり、井伊氏の築いた諸城の内の本城である。南北朝時代、延元3年(1338)秋、後醍醐天皇の皇子宗良親王が再び伊勢より井伊谷に入られ、この城を南朝勢力の遠江における軍事上の拠点となされた。足利尊氏勢の高師泰・高師冬・高師兼・仁木義長の大軍に攻められ、ついに興国元年(1340)正月落城し同年8月24日夜、詰城太平城も追い落とされて南朝の拠点は失われた。宗良親王は駿河の安倍城に移られたものと推定されている。その後戦国期元遠江守護であった美濃の斯波義達が井伊谷に入り、曳馬城大河内貞綱と井伊氏がこれにくみした。今川氏親は細江町刑部城・堀川城に伊達忠宗を入れて前進基地として三嶽城をせめた。永正十年(1513)に掛川城主朝比奈泰以を主力とする今川勢の総攻撃によって落城した。 この城は、山頂から尾根に沿って細長く築かれ、一の城・二の城・三の城と分かれ、深い谷や急な斜面など峻険な自然の地形を巧みに利用し、中世城郭の典型的な形態を有している。 一の城(本丸) 山頂にあって一番大きく、大型の土塁を幾重にも廻らせ、谷下・兎荷方面からの攻撃を防ぐ。 二の城(二の丸) 一の城より東の高知一帯にって、川名、滝沢方面よりの敵を防ぐ。 三の城(出丸) 現在の三岳神社の境内にあり本丸に迫る敵を阻止し、山城で一番重要な水を確保する役割を果たした。 宗良親王の庵室もこの地にあつたと伝えている。籠城中に後醍醐天皇の崩御にあわれ、親王は城の紅葉を祈ってこれに「おもふにもなほ色浅き紅葉かな そなたの山はいかが時雨るる」の一首を添えて吉野に届けられた。 引佐町 社頭掲示板 |
|
三嶽神社 延喜式神名帳記載の遠江国引佐郡大敬神社。当社は古えけ来より三嶽大権現と称し、かつて後醍醐天皇が、遠江の地に蔵王権現なるものを奉祈せしめよと命じ、皇子宗良親王が命に服し、この三嶽神社の地に蔵王権現を祀ったという。其後明治維新によって神仏混淆が禁じられ、明治元年三嶽神社と改称された。 静岡県神社庁 |
|
三岳城址 井伊氏の本拠・井伊谷の東端にあって、浜名湖はもちろん、現在の浜松市街地や遠州灘まで見渡せるすぱらしい眺望を誇ります。金指街道と長篠、豊川、二俣方面を結ぶ交通の要衝です。南北朝時代、南朝の後醍醐天皇は皇子たちを各地の有力者のもとに派遣して味方を募りました、延元2年(1337)、この地の井伊氏を頼ったのが宗良親王です。 井伊氏は親王とともに南朝方について.北朝方と戦いましたが、興国元年(1340)に落城しました。 井伊氏は、戦国時代にもここを本拠として駿河今川氏と争いましたが、永正10年(1513)に落城の憂き目にあっています。その後、井伊谷は、武田信玄と徳川家康の攻防の舞台となり、現在みられる城址の遺構は、この両者による造営とみられます。 遺跡の内、土塁や虎口、堀跡などが良く残る山頂付近が国の史跡に指定されています。 山麓の三岳集落周辺には、落城の折に城内の女人たちが落ちのびて自刃したという姫小藪などの伝承地があります。また、山頂近くの鞍部には、かつてあった幕松を偲んで川名青年団が建立した石碑があります。 ※延元・興国は、南朝方の年号です。 社頭掲示板 |