三嶽神社
みたけじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大敏神社(敏 母はEとなっている) 遠江国 引佐郡鎮座

   【現社名】三嶽神社
   【住所】静岡県浜松市北区引佐町三岳 597
       北緯34度51分2秒,東経137度41分37秒
   【祭神】広国押建金日命 (配祀)大国主命 少彦名命
       (合祀)表津綿津見神 中津綿津見神 底津綿津見神 表筒之男命
          中筒之男命 底筒之男命

   【例祭】10月10日 例大祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「三嶽山権現」と称していた
   【社殿】本殿
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】

式社名は「オホセチ」あるいは「タイセチ」よ読まれたか。
桜の名所の三岳山の頂上付近に鎮座する。この地は宗良親王ゆかりの三岳城(典型的な山城)の三の丸になる。
近世は「三嶽山権現」と称されていた。
当社を奥宮、四所神社を里宮とする説もある。
社殿はコンクリート製。


三岳城跡

国指定史蹟(昭和19年3月7日)
当城は三岳山の山頂にあり、井伊氏の築いた諸城の内の本城である。南北朝時代、延元3年(1338)秋、後醍醐天皇の皇子宗良親王が再び伊勢より井伊谷に入られ、この城を南朝勢力の遠江における軍事上の拠点となされた。足利尊氏勢の高師泰・高師冬・高師兼・仁木義長の大軍に攻められ、ついに興国元年(1340)正月落城し同年8月24日夜、詰城太平城も追い落とされて南朝の拠点は失われた。宗良親王は駿河の安倍城に移られたものと推定されている。その後戦国期元遠江守護であった美濃の斯波義達が井伊谷に入り、曳馬城大河内貞綱と井伊氏がこれにくみした。今川氏親は細江町刑部城・堀川城に伊達忠宗を入れて前進基地として三嶽城をせめた。永正十年(1513)に掛川城主朝比奈泰以を主力とする今川勢の総攻撃によって落城した。
この城は、山頂から尾根に沿って細長く築かれ、一の城・二の城・三の城と分かれ、深い谷や急な斜面など峻険な自然の地形を巧みに利用し、中世城郭の典型的な形態を有している。
一の城(本丸)
山頂にあって一番大きく、大型の土塁を幾重にも廻らせ、谷下・兎荷方面からの攻撃を防ぐ。
二の城(二の丸)
一の城より東の高知一帯にって、川名、滝沢方面よりの敵を防ぐ。
三の城(出丸)
現在の三岳神社の境内にあり本丸に迫る敵を阻止し、山城で一番重要な水を確保する役割を果たした。
宗良親王の庵室もこの地にあつたと伝えている。籠城中に後醍醐天皇の崩御にあわれ、親王は城の紅葉を祈ってこれに「おもふにもなほ色浅き紅葉かな そなたの山はいかが時雨るる」の一首を添えて吉野に届けられた。
引佐町

社頭掲示板



三嶽神社

延喜式神名帳記載の遠江国引佐郡大敬神社。当社は古えけ来より三嶽大権現と称し、かつて後醍醐天皇が、遠江の地に蔵王権現なるものを奉祈せしめよと命じ、皇子宗良親王が命に服し、この三嶽神社の地に蔵王権現を祀ったという。其後明治維新によって神仏混淆が禁じられ、明治元年三嶽神社と改称された。

静岡県神社庁



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