須倍神社
すべじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】須倍神社 遠江国 引佐郡鎮座

   【現社名】須倍神社
   【住所】静岡県浜松市北区都田町 6284
       北緯34度49分26秒,東経137度42分45秒
   【祭神】天照皇大神 豊受姫大神
       (配祀)天手力男命 栲幡千千比売命 迩迩芸命 天児屋根命 天太玉主命
       (合祀)息長帶比売命 品陀和気命 玉依比売命 思兼神 菅原道真 磐之媛命
       猿田毘古神 大山津見神 大地主神 品陀和気命 大雀命 大山津見神 大雀命
       菊理比売神 大雀命 大山津見神 伊勢兩宮同神 須佐男命 経津主神 武甕槌神
       大己貴命 神武天皇 宇麻志麻治命 道主命 日本武命 伊邪那美神 保食神
       大山津見神 熊野神 保食神 須佐男命 金山比古命 熱田神 熱田神 田心姫命
       市杵嶋姫命 湍津嶋姫命 天忍穗耳命 天穗日命 天津彦根命 活津彦根命
       熊野杼樟日命 大地主神 大山祇命 菅原神 思兼神 金山彦命 大山祇命
       健御名方神 船戸神 天手力男命 大雷命 大山祇命 菊理姫神 宇迦之御魂神
       大己貴神 麓山祇命 菊理姫神 大山祇命 御穗須須美神 水波野女神 蛭子命
       高オカ神 水波野女神 御井神 地主神 水波野女神 金山彦命 伊邪那美命
       伊邪那美命 迦具土神 忌部神 六社大明神 三社神 大山祇命 大山祇命
       大山祇命 大山祇命 大山祇命 大山祇命 大山祇命 大山祇命 素盞嗚命
       須佐男命 須佐男命 須佐男命 須佐男命 須佐男命 須佐男命 須佐男命

   【例祭】10月17日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】仁和3年(887年)の建宮
       延喜2年(902年)上社下社の両社を現在地に遷
       慶長6年徳川家康黒印寄進
       明治6年3月郷社
       同7年5月24日村内の神社69社を外宮に合祀
       明治40年6月21日幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】もと内宮は上社として上都田須部の上の山に鎮座
        外宮は下社として下都田中津に鎮座
        延喜2年(902年)上社下社の両社を現在地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「神明宮」と称していた
   【公式HP】 須倍神社
   【社殿】本殿二棟。神明造銅板葺
       幣殿、拝殿、神饌所、社務所、氏子控所

   【境内社】秋葉神社・津島神社・姥神社
   【境内図】 境内図

都田川西岸近くに鎮座する。
58代光孝天皇の仁和3年の建宮と伝えられており、鎮座地都田は伊勢神宮の御厨として発達した土地であり、祭神は伊勢神宮を勧請奉斎したものと思われる。もと内宮は上社と言って上都田須部の上の山に鎮座し、外宮は下社と称し下都田中津に鎮座していたが、延喜2年上社下社の両社を現在地に移し、神明宮或いは須倍神社と称えるようになった。
本来、式内須倍神社が中心だつた集落が、後世、伊勢神宮御厨にくみいれられることがあり、集落の中心だつた須倍神社に、その際に伊勢神宮の分霊が奉祭され、同社が神明宮と化したと思われる。


由緒

当社は延喜式内社で引佐郡六座の一でありまして、人皇58代光孝天皇の御宇仁和3年の建宮と伝えられております。
鎮座地都田は伊勢神宮の御厨として発達した土地でありますから、御祭神は伊勢神宮を勧請奉斎したものと思われます。
もと内宮は上社と言って上都田須部の上の山に鎮座し、外宮は下社と称し下都田中津に鎮座して居りましたが、延喜2年上社下社の両社を現在地に移し、神明宮或いは須倍神社と称えるようになりました。慶長6年徳川家康は伊奈忠次に社領として、内宮に四石、外宮に三石を黒印を以て寄進されたのを慶安元年10月24日徳川家光が朱印に改め寄進されました。
明治6年3月郷社に列格、同7年5月24日村内の神社69社を外宮に合祀し、明治40年6月21日神饌幣帛料供進社に指定せられました。昭和2年社務所を建築。昭和25年本殿改造、神明造銅葺となし、拝殿の茅葺を銅葺に改めました。昭和55年幣殿渡殿を改修銅葺とし、更に翌56年手水舎を新築し現在の状態となったものであります。
昭和62年(1987年)は建宮以来千百年に当たりますので境内社の改築、社務所の一部増築を含む修繕を行い、5月17日千百年式年祭を斎行しました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




須倍神社

須倍神社の御祭神
内宮
内宮 本殿
千木は内削(水平切)、鰹木は6本(本殿偶数)。
御祭神天照皇大神
相殿神天手力男命
拷幡千々比売命
 元上都田須部の上の山に鎮座。現在の源宮神社の鎮座する周辺と伝えられる。
現在の本殿は昭和25年に改築されたもので、神明造銅葺である。平成10年に改修した鰹木(堅男木)が新しい。
内宮と外宮の両殿は、延喜2年(902)に現在の場所に遷され、神明宮或いは須倍神社と称されるようになった。
須倍神社の御祭神
古事記・日本書紀より
天の岩戸
 遠い昔、天照大御神(アマテラスオオミカミ)さまという、太陽のように大切で貴く、やさしい神さまが、たくさんの神々がお住まいになる高天原(タカマノハラ)をお治めになっておられました。
 そして、その弟に須佐之男命(スサノオノミコト)という神さまがいらっしゃいましたが、この神さまは、力が強く、たいへん乱暴な神さまでした。
 ある日、天照大御神さまが機(ハタ)を織っておられると、須佐之男命は大御神さまを驚かせようと、そっと御殿に忍びより、天井からドサッと馬を投げ入れました。大御神さまはあまりのことに驚かれ、天の岩戸(アメノイワト)という洞窟のような岩屋にお入りになって、閉じこもってしまわれました。
 さあ大変です。太陽のようにうるわしい天照大御神さまが隠れてしまわれたのですから、高天原は真っ暗闇になってしまいました。困り果てた神々は天の安河原に集まり相談しましたが、なかなかよい方法が見つかりません。するとそのとき思兼神(オモイカネノカミ)というたいへん賢い神さまに、よい案が浮かびました。
 まず、ニワトリを集めて鳴かせてから、天の岩戸の前で天照大御神さまのお出ましを願うお祭りを始めました。これに合わせて、踊りの上手な天宇受売命(アメノウズメノミコト)が、桶を伏せて、その上で拍子をとりながら、にぎやかに踊り始めました。神々は手をたたいて笑い合い、高天原は神々の笑い声にわき返りました。
 岩屋の中の天照大御神さまは、外があまりにもにぎやかなので不思議に思って、岩戸をほんの少しだけお開けになりました。すると、天宇受売命が「大御神さま、あなたさまより貴い神さまがいらっしゃったので、みんなで喜んでいるのです」と申し上げたものですから、大御神さまは、いっそう不思議に思われて、もう少しだけ岩戸をお開けになりました。
 その時です。岩戸のかげに隠れていた力の強い天手力男神(アメノタヂカラオノカミ)は、力いっぱいに岩戸を押し開き、大御神さまのお手を取り、外にお出し申し上げました。天照大御神さまが外にお出になると、真っ暗闇だった世の中も見る見るうちに明るくなり、高天原にふたたび平和がもどったのでした。 
天孫降臨
 天照大御神さまは、日本の国が、みずみずしい稲が豊かに実るすばらしい国になるように願いを込めて、豊葦原瑞穂国(トヨアシハラノミズホノクニ)とお呼びになりました。そして、お孫さまの邇邇芸命(ニニギノミコト)に三種神器(サンシュノシンキ)である八た鏡(ヤタノカガミ)・八坂に勾玉(ヤサカニノマガタマ)・草薙剣(クサナギノツルギ)をお授けになり、高天原から瑞穂国に天降り(アマクダリ)、平和で豊かな国として治めるようお命じになられました。
 さっそく、邇邇芸命が高天原に住む神々をともなわれ、天降られようとすると、光を発している神さまが見えます。天照大御神さまは不思議に思われ、天宇受売命という神さまを使いに送り、どうしてそこにいるのかをうかがわせました。その神さまの名は猿田毘古神(サルタヒコノカミ)といい、邇邇芸命が高天原から天降られることを聞き、お迎えにあがったのだと答えました。
 そこで、邇邇芸命は、この神さまをおともに加えられ、いくえにも重なった雲を押し分け押し分け、筑紫の日向の高千穂の峰に天降られました。命はこの地をとても気に入られ、立派な宮殿をお建てになりました。
 その後、邇邇芸命のご子孫は栄え、豊葦原瑞穂国をお治めになりました。
外宮
外宮 本殿
千木は外削(垂直切)、鰹木は5本(本殿奇数)。
御祭神豊受姫大神
相殿神皇孫邇々藝命
天児屋根命
天太玉主命
 元下都田中津に鎮座。現在の中津と一色の境と伝えられる。
本殿は内宮同様、神明造銅葺である。明治7年都田村内69社を合祀。
須倍神社由緒
 いまなお深い杜に包まれた神明造りの須倍神社は、蒲神明宮、と並び称される遠州三神明宮のひとつで、天照大御神はじめ多くの神々、日本武尊、神武天皇、菅原道真公、鹿島・香取・熱田神宮同神など70柱の神々をお祀りする大変珍しくまた由緒正しき神明宮です。 別名を寄宮とも称される霊験あらたかな神社ですから、御祈願は当神社一つ処で事足りる。則ち御利益を求めて東奔西走しなくても、当社70柱の神々が御祈願の事をお聞き届け下さるというわけです。
その歴史を簡単に紹介すると。
仁和・延喜年間
須倍神社は延喜式内社で遠江国 引佐郡六座の一つでありまして、人皇58代光孝天皇の御宇、仁和3年(887年)の建宮と伝えられております。
鎮座地都田は伊勢の神宮の御厨として発達した土地でありますから、御祭神は神宮を勧清奉斎したものと思われます。もと内宮は上社として上都田須部の上の山に鎮座し、外宮は下社として下都田中津に鎮座しておりましたが、延喜2年(902年)上社下社の両社を現在地に遷し奉り、神明宮或いは須倍神社と称ようになりました。
慶長・慶安年間
慶長6年徳川家康は伊奈忠次に社領として内宮に四石、外宮に三石を黒印を以て寄進されたのを慶安元年10月24日徳川家光が朱印に改め寄進されました。
明治年間
明治6年3月郷社に列格、同7年5月24日村内の神社69社を外宮に合祀。
明治33年11月征清戦徒紀年碑奉斎
明治40年6月21日神社本庁より幣帛料供進社に指定される。
昭和年間
昭和2年社務所を建築、昭和25年本殿改造、神明造銅葺となし、拝殿の茅葺きを銅葺きに改めた。
昭和55年幣殿渡殿を改修銅葺きとし、更に翌56年手水舎を新築し現在の状態となった。またこの年の7月静岡県神社庁より神社7等級に認証される。
昭和62年(西紀1987年)は建宮以来千百年にあたり境内社の改築、並びに社務所の一部増築を含む修繕を行い5月17日千百年祭を斎行した。
平成年間
平成3年 第2鳥居改築
平成6年 神せん所改築 拝殿床修理
平成10年 本殿堅男木改築
浦安の舞
皇紀二千六百年奉祝
天地の神にぞ祈る あさなぎの
海のごとくに 波たたぬ世を
昭和天皇御製
祭禮奉仕
須倍神社で執り行われる10月の大祭,11月の新嘗祭,2月の祈年祭の大祭式の御祭禮では、当番区の中から選ばれた助勤者と舞姫が 五穀豊穣と家内安全などの願いと感謝を込めて浦安の舞の厳かな雅楽の調べに合わせて、扇の舞・玲令の舞を奉納し、神聖な神々 へのお供物の受け渡しなどの奉仕を行う。          
当番区は9年に一度しか巡ってこないので、当番区に当たっていなければやりたくとも出来ず、昔から、この助勤と舞姫としての 奉仕は大変名誉な事とされてきた。
現在では、毎年助勤者と舞姫に対して須倍神社より、感謝状と記念品の授与が行われている。
年中行事
秋  祭
篝燈火焔映堂庇
老若連綿参詣昌
祭祀恭々随古式
余興即妙非通常
男児勇躍溢神域
女性音声真劇場
欣喜無窮深夜及
豊登祝着泰平郷
須倍神社宮司 加藤 春雄 書

社頭掲示板



須倍神社

 いまなお深い杜に包まれた神明造りの須倍神社は、蒲神明宮、と並び称される遠州三神明宮のひとつで、天照大御神はじめ多くの神々、日本武尊、神武天皇、菅原道真公、鹿島・香取・熱田神宮同神など70柱の神々をお祀りする大変珍しくまた由緒正しき神明宮です。 別名を寄宮とも称される霊験あらたかな神社ですから、御祈願は当神社一つ処で事足りる。則ち御利益を求めて東奔西走しなくても、当社70柱の神々が御祈願の事をお聞き届け下さるというわけです。
その歴史を簡単に紹介すると。
仁和・延喜年間
須倍神社は延喜式内社で遠江国 引佐郡六座の一つでありまして、人皇58代光孝天皇の御宇、仁和3年(887年)の建宮と伝えられております。
鎮座地都田は伊勢の神宮の御厨として発達した土地でありますから、御祭神は神宮を勧清奉斎したものと思われます。もと内宮は上社として上都田須部の上の山に鎮座し、外宮は下社として下都田中津に鎮座しておりましたが、延喜2年(902年)上社下社の両社を現在地に遷し奉り、神明宮或いは須倍神社と称ようになりました。
慶長・慶安年間
慶長6年徳川家康は伊奈忠次に社領として内宮に四石、外宮に三石を黒印を以て寄進されたのを慶安元年10月24日徳川家光が朱印に改め寄進されました。
明治年間
明治6年3月郷社に列格、同7年5月24日村内の神社69社を外宮に合祀。
明治33年11月征清戦徒紀年碑奉斎
明治40年6月21日神社本庁より幣帛料供進社に指定される。
昭和年間
昭和2年社務所を建築、昭和25年本殿改造、神明造銅葺となし、拝殿の茅葺きを銅葺きに改めた。
昭和55年幣殿渡殿を改修銅葺きとし、更に翌56年手水舎を新築し現在の状態となった。またこの年の7月静岡県神社庁より神社7等級に認証される。
昭和62年(西紀1987年)は建宮以来千百年にあたり境内社の改築、並びに社務所の一部増築を含む修繕を行い5月17日千百年祭を斎行した。
平成年間
平成3年 第2鳥居改築
平成6年 神せん所改築 拝殿床修理
平成10年 本殿堅男木改築

公式HP



須倍神社

由緒
人皇58代光孝天皇の御宇仁和3年(887)の建宮
延喜2年(902)上都田内宮(須部上の山)下都田外宮(中津潜龍橋たもと付近)を合わせて延喜式内須倍神社と社号を定め現在の神明風呂に遷座した。鎮座地都田は伊勢神宮の御厨で須倍神社は引佐郡六座の一つに挙げられている。
慶長6年徳川家康は伊奈備前守忠次に社領として黒印を以て寄進され、慶安3年徳川家光が朱印に改め寄進されている。
明治6六年郷社に列格。
村内69社を外宮に合祀する。
例祭日 10月17日

社頭石碑



須倍神社

須倍は假字也〇祭神在所等詳ならず
國人石塚龍丸云、都田村ニアル神明ノ社也、(参考同)其村内ニ今モ須倍ト云地アリ、
類社
若狭国三方郡須部神社

神社覈録



郷社 須倍神社

祭神
天手力男命 天照皇大御神 拷幡干々比売命
皇孫邇々藝命 豊受大神 天児屋根命
合祭
磐之姫命 大地主命 品陀和気命 大雀命
大山津見命 菊理比売命 経津主神 武甕槌神
大己貴命 神武天皇 宇麻志麻智命 日本武尊
伊邪那美神 保食神 金山比古神 田心姫命
市杵島姫命 湍津姫命 天忍穂耳命 天穂日命
天津彦根命 活津彦根命 熊野橡樟日命 菅原神
思兼神 金山彦命 健御名方命 天手力男命
宇迦之御魂神 麓山祇命 御穂須々美神 彌都波能売神
蛭子命 御井神 素戔鳴命 忌部神
加具土神 猿田毘古命 少毘古那神 志那都比古神
創立年代詳ならず、但し社傳には仁和3年の勧請とせり、当社は旧と神明宮と称せしが、延喜式内社須倍神社なりとの故を以て、明治維新今の称に改む、当社が式の須倍神社なることは、神名帳考証に、
「石塚龍萬呂云、都田村にある神明の社也と云ふ、其村の内に、今も須倍と云ふ地あり」
と見えたるを始めとし、遠江国風土紀伝に、
「須倍神社、都田郷神明宮(二社)二社之御戸代高七石、須倍地名、摂社及社僧須倍之神戸等之余地合、高四十石一斗五升三合、是昔御厨之遺跡也(上都田神戸五十一所、下都田神戸二十四所)云々、東鑑曰、寿永3年3月14日、遠江國都田御厨如元、從神宮使、可到沙汰之由被定下、神鳳抄曰、都田御厨(上分田見作八十九町段別一斗)」
と見え、其他神社覈録、神祇志料及特選神名牒にも見えたり、然れども、古くは遠江国式内牡摘考に」都田村にある神明是なりといへども、未詳」といひ、近くは、大日本地名辞書に、「神明社是なりと、不審、御厨の痔社の延喜式に列すること、再考を要す」といへり、明治6年3月郵社に列し、同7年、近郷鎭座の六十四社を合祀す、
社殿は本殿、雨覆、拝殿等を具へ、境内は1152坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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