集落奥都田川南岸近くに鎮座する。山腹の神社。本殿周りの木は開いてある。応神天皇の代八田毛止恵がこの地を開墾して創立。脇宮は允恭天皇の代に勧請され鳥飼神社・羽鳥大明神とした。 |
由緒 蜂前神社の由来 祭神 本社 熯速日命 左脇宮 甕速日命 右脇宮 武甕槌命 由緒 15代応神天皇11年庚子3月8日(西暦270年)に八田毛止恵と云う人が勅命によって遠江国に下向して 八田(祝田村の古名)45町広田(刑部村の古名)70町岩瀬(瀬戸村の古名)8町3反合計123町余りを開墾して本社を八ケ前に歓請して蜂前神社と斎き奉り子孫代々祝部として奉仕しました。 脇宮2社は十九代允恭天皇の御代に歓請されその頃から社号は鳥飼神社、羽鳥大明神と称えられ延長5年(西暦927年)蜂前神社と改め古名に復しました。延喜式神名帳に記載されている式内社であり旧社格は郷社であります。 昭和55年10月之建 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
蜂前神社の由来 祭神 本社 熯速日命 左脇宮 甕速日命 右脇宮 武甕槌命 由緒 15代応神天皇11年庚子3月8日(270)に八田毛止恵という人が勅命によつて遠江国に下向して 八田(祝田村の古名)45町、広田(刑部村の古名)70町、岩瀬(瀬戸村の古名)8町3反合計123町歩余りを開墾して本社を八ヶ前に勧請して蜂前神社と齋き奉り己孫代々祝部として奉祀しました。 脇宮2社は19代允恭天皇の御代に勧請され、その頃から社号は鳥飼神社、羽島大明神と称えられ延長5年(927)蜂前神社と改め古名に復しました。 延喜式神名帳に記載されている式内社であり旧社格は郷郷社であります。 社頭掲示板 |
蜂前神社 本社の勧請は、応神天皇11年庚子3月8日(西暦270年)、脇宮の勧請は允恭天皇御代。 社号は当初八ヶ前(ハチガサキ)の地名によって蜂ヶ前(ハチガサキ)と称したが、允恭天皇以降は鳥飼(トリカイ)神社または羽鳥大明神(ハトリダイミョウジン)と称え、延長5年更に蜂前神社と改め古名に復した。 応神天皇11年八田毛止恵(ハッタモトエ)なる者勅を奉じ遠江国へ下向し、八田45町(祝田の古名)、広田70町(刑部)、岩瀬8町3反(瀬戸)合わせて123町余りを開墾し、本社を八ヶ前に勧請し、蜂前神社と斎き祀り、子孫代々祝部として奉仕した。 よって八田、上刑部、下刑部、岩瀬、石岡、五日市場、広岡の七ヶ村はこの神社を大氏神と崇め奉ったという。今川家・井伊家から社領を寄せられ、徳川家康も伊奈忠次をして社領5石を寄進した。次いでこれを朱印に改めて明治に至った。 祭日 榊葉の白弊を奉幣し御飯75膳即ち早苗田の新米3升3合をあてる。 御神酒、新醸の清酒を壺に入れて献ず、お肴、御料理、生姜十片、柿十顆、栗十顆、松魚節5本、鮮魚10尾を献供する。 外に牛の舌と名付け円長形の餅を作り、氏子一族へ配布する。また小円形の餅を製して投げ餅にする。 右献供取扱者何れも浄身して覆面を掛け謹んで献供する。(牛の舌は現在も続けられている)」 細江町史 |
蜂前神社 社伝によれば本社の勧請は應神天皇11年庚子3月8日(西暦270年)、脇宮の勧請は允恭天皇御宇なりと言ひ、社号は勧請の当初に於ては八ヶ前の地名に因って蜂ヶ前と称し、允恭天皇以降は鳥飼神社又は羽鳥大明神と称へ、延長5年更に蜂前神社と改め古名に復したと言ふ。三代実録貞観8年12月26日の条に「遠江國鳥飼神に従五位を授く」とある、則ち是なりと定む。舊記によれば、應神天皇11年庚子3月8日八田毛止恵なる者勅を奉じ、遠江國へ下向し、八田45町(祝田の古名)廣田70町(刑部の古名)岩瀬8町3反(瀬戸の古名)合せて123町歩餘りを開墾し、本社を八ヶ前に勧請し蜂前神社と斎き奉り、子孫代々祝部として奉仕した。依って八田、上刑部、下刑部、岩瀬、石岡、五日市場、廣岡七ヶ村はこの神社を大氏神と崇め奉ると言ふ。今川家・井伊家の崇敬あり社領を寄せられ、徳川家康亦伊奈忠次をして社領5石を寄進す。次いでこれを朱印に改め以って明治に至る。明治41年1月12日神饌弊帛料供進社に指定せられ、大正12年2月12日郷社に昇格、大正12年2月22日郷社としての供進指定社と定めらる」 引佐郡神社誌 |
蜂前神社 神社の前に広がる平野もかつては今川家の家臣として井伊家の領地でした。 この一帯をかつては刑部郷といい、これは奈良時代からつづく古い地名です。 井伊直盛の代に今川義元に謀反を疑われた一族の直満・直義が殺害され、直満の子・亀之丞は信州に身を隠し、許嫁だった直盛の娘も出家してしまいます。 弘治元年(1555)に帰還した亀之丞は名を直親と改め、神社のある祝田村に住みました。桶狭間で主君義元とともに直盛が戦死すると直親が家督を継ぎましたが、今川家から徳川家への謀反を疑われて謀殺されます。存亡の危機を迎えた井伊家は、出家していた直盛の娘を当主としました。女性として井伊谷領主を継いだ井伊直虎に対し、永禄9年(1566)、今川氏真は井伊谷及び祝田・都田の地域に徳政令(賃借関係の破棄)を命じました。直虎は独自の判断で、徳政令の実施を2年間押しとどめています。蜂前神社には、その時の経過がわかる古文書が残っています。 平成28年3月 北区まちづくり推進課 社頭掲示板 |
直虎の名と花押が記された唯一の書状 浜松市指定文化財 井伊直虎・関ロ氏経連署状 永禄11年(1568)11月9日 紙本墨書 一通 縦19.0 横39.0 浜松・蜂前神社(浜松市博物館保管) 直虎の名と花押が見られる唯一の書状である、名は祐筆か書いたと思われるが、花押は本人である可能性が高い。永禄11年11月に、直虎は今川氏真の家臣関口氏経と連署て祝田郷に村し徳政令を発することとなった。本来は永禄9年(1566)に今川氏により発令された徳政てあったが、銭主と呼ばれる高利貸しや、井伊氏一門の抵抗により徳政が実現されなかった。そこて直虎は永禄11年に徳政を実施した。 社頭掲示板 |
蜂前神社 蜂前は波知佐岐と訓べし〇祭神在所等詳ならず 式社考云、祝田村明神也、(参考同)ト云ル疑ハシ、或人云、況田村羽鳥大明神也ト云リ、 神社覈録 |