二宮神社
にのみやじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】三宅神社 遠江国 引佐郡鎮座

   【現社名】二宮神社
   【住所】静岡県浜松市北区引佐町井伊谷 306
       北緯34度50分13秒,東経137度40分22秒
   【祭神】多道間守命 宗良親王
   【例祭】8月10日近い日曜日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】三宅氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「二宮大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       外屋、拝殿、神樂殿

   【境内社】

集落奥。山中に入った神社。伊井郷の荘司三宅氏の始祖を祀る。元中2年(1385)宗長親王を合祀。2神を祀ることから二宮神社の名が起こった。


由緒

当二宮神社は多道間守と宗良親王との御二柱を御祭神としております。往古は三宅神社と称し奉り天日槍尊の四世で井伊郷の荘司三宅氏の始祖多道間守の尊霊を奉祀した延喜式の式内社に列せられた霊社であります。
第11代垂仁天皇の勅諚に応え常世の国から我国へ橘を招来したのがこの祖神多道間守で当地発祥の井伊家は式内社渭伊神社を象徴する井桁と当三宅神社の橘とを家紋と致しました。
元中2年8月10日後醍醐天皇の皇子宗良親王が井伊城に薨ぜられるや9月南帝の勅使中院為久卿、中院小将定平朝臣下向、御連枝の方、方廣寺開山圓明大師を御導師として葬送の御儀を執行い当三宅神社に尊霊を合祀奉り、爾来二柱の神霊を祭祀するため二宮神社と改称し奉りました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




二宮神社

南北朝の時代、井伊家は南朝方について、当地域の北朝方の勢力と争いました。
後醍醐天皇の皇子、宗良親王は、伊勢の大湊より船で当地に向かう途中、嵐に逢い遭難してしまいました。しかし、親王が乗つた船は幸運にも「しろわの湊」に漂着し、無事に当地の井伊家を訪れ、三岳城を拠点として戦いました。しかしながら_この地の南朝方勢力は北朝方に一掃され、親王も信州に逃れ、井伊家もいったんこの地の拠点を失いました。二宮神社は井伊家にかかわる多道間守(橘の家紋)とともに「二宮」とも呼ばれた宗良親王を合祀しています。
平成28年9月 北区まちづくり推進課

社頭掲示板



天王社

小野政次(小野但馬守 井伊家の筆頭家老)幼小時 鶴丸
一時井伊谷城主(NHK大河ドラマにて高橋一生好演中)
井伊直虎を追いたてて井伊谷城を専横した小野政次の天下は、わずか34日間のことでした。
遠江侵攻を開始した徳川家康によつて井伊谷城は攻めこまれると、山中に逃亡し捕らえられ小野政次とその幼い子息2人は刑場・蟹淵(井伊谷川)において処刑された。
人々はこれを哀れみ、その霊を鎮めんと経塚に続いて二宮神社の境内に、小野政次を祭神とした但馬社が建てられた。(現在は天王社に合祀されている)
永禄11年1568年の事逆臣なれど崇りを恐れる
二宮神社物語より

社頭掲示板



二宮神社

901頃 三宅好用奈良より着任
    多遅麻毛利命を三宅連氏神として祀る 三宅神社建立
1386  宗良親王と合祀し二宮神社と改称
1560頃 二宮神社大破につき井伊直盛(直虎の父)により再建
1573  三方原合戦時、武田軍により二宮神社焼き払われる
1647  二宮神社本殿再建
1823  二宮神社神楽殿造営
1842  二宮神社拝殿及び神輿造営
1852頃 二宮神社浦安の舞始まる
1958  二宮神社不審火により本殿・拝殿・天王社焼失
1965  二宮神社再建

社頭掲示板



三宅神社

三宅は美也介と訓べし、和名鈔、(郷名部)麁玉群三宅、(假字上の如し)〇祭神三宅人、或は三宅連祖歟、〇在所詳ならず
参考云、在井伊谷、今称二宮、
類社
伊勢國鈴鹿郡三宅神社の條見合すべし

神社覈録



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