引佐万部中学校南に鎮座する。 もとは龍潭寺境内にあったが、南北兵乱の時 今の地に移すという。 龍潭寺は伊井谷宮が現在ある。 本殿背後に「天白磐座遺跡」があり、巨石が散在している、磐座信仰の跡と思われる。 |
由緒 引佐町井伊谷字天白にあり、境内2535坪老杉古桧欝蒼として繁茂し、北西南の三方河水回りて(神宮寺川にして又宮川ともいう)其風致最も秀拔なり。 由緒創立の年代由緒詳ならざれども、三代実録に貞観8年12月26日授遠江国正六位上蟾渭神風土記に延喜式神名帳遠江国引佐郡渭伊神社とあり又 江州彦根城主井伊家祖先備中守共保 寛弘7年其神井より出生以来産土神として信仰厚し、渭伊神社は往昔 今の龍潭寺境内にありしも南北兵乱の時 今の地に移せりという。往昔より渭伊二十七郷の大産土神なり。旧地頭近藤氏の崇敬厚し。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
渭伊神社 本殿の真後ろあたりに岩座あり巨石散在し大は5m小は1m立つ岩横たわる岩、さまざまな姿に群れて総数約二十の岩群を形成している。 即ち、岩座とは神の依り坐す処といわれ丘上の岩群は渭伊神社の神座岩群であり古代より今日まで初めそのままの姿を残している。 岩座紀行誌より 社頭掲示板 |
渭伊神社 引佐町井伊谷字天白にあり境内2535坪 老杉古桧欝蒼として繁茂し北西南の三方河水回りて(神宮寺川にして又宮川ともいう)其風致最も秀抜なり。 由緒創立の年代、由緒詳ならざれども三代実録に貞観8年12月26日授遠江国正六位上蟾渭神 風土に延喜式神名帳中遠江国引佐郡渭伊神社とあり又江州彦根城主井伊家祖先備中守共保寛弘7年其神井より出生以来産神として信仰厚し。 渭伊神社は往昔今の龍潭寺境内にありしも南北兵乱の時現今の地に移せりという。 往昔より渭伊二十七郷の大産神なり。 旧地頭近藤氏の崇敬厚し。 井伊谷村誌より 社頭掲示板 |
渭伊神社 天白磐座遺跡 延喜式にその名を載せる渭伊神社本殿の背後にある薬師山の頂上に位置し、40m四方にわたって群在する巨石群を神の依代(よりしろ)(磐座(いわくら))とした我国屈指の規模を持つ古代祭祀遺跡である。 平成元年(1989)夏に実施された発掘調査により四世紀後半(古墳時代前期)から平安時代に至る長期間連綿と続いた祭祀場であったことが明らかとなつた。特に高さ7mに及ぶ最大の磐座の西側直下は古墳時代の祭祀場として限定され、多量の手づくね土器や鉄矛や滑石製勾玉(まがたま)などの祭祀に用いられた遺物が出土した。また十二世紀末には末法思想による埋経のための経塚が巨石群の中央に営まれ、渥美製の経筒外容器が和鏡と共に出土した。 この遺跡は渭伊神社の祭祀が古墳時代前期まで遡ることを語るとともに、古代人の精神や宗教観を解明する上で重要な文化財である。 ふるさと創生事業浜松市 社頭掲示板 |
創建 創建は不詳。社殿後背の薬師山山頂には磐座祭祀遺跡である天白磐座遺跡(静岡県指定史跡「渭伊神社境内遺跡」)があり、発掘調査において古墳時代の遺物が検出されていることから、この天白磐座遺跡の延長として創建されたとする説がある[2]。そして享禄年間(1528-1532年)には、龍潭寺付近にあった八幡宮が合祀されたという。 一方、八幡宮と渭伊神社は同一神社であり享禄年間に龍潭寺付近から遷座したものであるとして、渭伊神社は天白磐座遺跡と連続しないとする説も挙げられている。この説では、龍潭寺付近の井戸(伝井伊共保公出生井)を聖井とする「井神社」が本来の性格になると指摘される。 Wikipedia |