三方原台地の南端の森の中にある。 社名の由来は神が隠れ籠もる意味と考えられる。 中世から神ケ谷村八幡社と呼ばれるようになつた。 古くから雨乞いの神とされる。 |
由緒 元県社 賀久留神社 静岡県浜松市神ヶ谷町鎮座 一、 祭神 闇御津羽神 (神代の神、水を司り、農耕灌漑の神) 闇淤加美神 (神代の神、龍神で、雨乞いで名高い) 氣長帶比賣命 (仲哀天皇の皇后、応神天皇の母) 譽田別命 (応神天皇) 玉依比賣命 (神武天皇の母) 一、 由緒・沿革 当社は延喜式神名帳(927年)所載「遠江国敷知郡賀久留神社」である。祭神は「闇御津羽神」「闇淤加美神」の二神で五穀豊穣、水分、生寿、福賀、厄除の神である。のち「気長帯比売神」「誉田別命」「玉依比売命」を合祀し、武運長久、交通安全、護身の神である。 清和天皇、貞観4年5月朔、位階を授けられた。延元3年正月、宗良親王の御祈願。応永26年、将軍足利義尚公御造営。天文10年3月、国司今川義元公再建御神領壱千石寄進。慶長6年伊奈備前守忠次公御黒印15石御寄付。慶安元年、徳川家光公先規に依り御朱印15石御寄付。領主吉田城主、松平伊豆守信祝殿以来累代名祭祀料山林164町8反歩御寄付。浜松藩主代々奉幣。以上の様に武門武将、領主の崇敬が深かった。 もと、八幡宮と称していたが改称の儀、明治16年1月許可され、昭和4年7月4日、県社に列格せられる。昭和5年5月、昭和天皇行幸の御時に当社所有宝物の天覧の光栄を賜う。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
賀久留神社 古くから雨ごいの神として知られ、雨ごいの竜の面の伝説が残るこの神社は、平安時代に創建された。境内は、昼でも薄暗いほどに古木が茂り、中でも神殿西側の道路ぞいの夫婦木楠は、樹齢800年ともいわれる大木で、県から御神木の指定を受けているし、神殿東側のモミの木は、市の保存樹に指定されている。 神殿正面のこま犬は、このあたりでは珍しく獣の顔をしている。 また、10月には昔さながらの祭礼が行われている。 神久呂ふるさと創生事業推進委員会 平成4年度 社頭掲示板 |
賀久留神社例大祭 よみがえるいにしへの大行列 賀久留(かくる)神社は、平安時代の『延喜式』(えんぎしき)にも記される古い神社。その威厳を示すかのように、境内には樹齢800年の御神木の夫婦楠をはじめ、多くの古木があります。 毎年10月には、古式豊かに伝統を守りながらの例大祭が行われます。この神社独特の珍しい神事は、室町時代の中頃から続くといわれ、14時から始まる大祭行列『神幸祭(しんこうさい)』が最大の見どころ。獅子や、南蛮風の衣装を着た拝王子(はいおうじ)と鉄砲撃ち、傀儡子(かいらいし デコ様)、四神鉾(しじんほこ)、旗・幟(のぼり)など総勢約100人の行列の後に3台の山車が続きます。神社から約800m離れた御旅所(休憩所)まで、古式ゆかしい装束と音曲で、お囃子もにぎやかに約1時間かけて粛々と進みます。 途中には、古式神事『田草の舞』・御旅所手前で拝王子と獅子の競争で農事を占う儀式も行われます。 ふじのくに文化資源データベース |
加久留神社 加久留は假字也○祭神在所等詳ならず 参考云、在神谷村、 神位 三代実録、貞観4年5月戊辰朔、遠江國加久留神從五位下、 神社覈録 |
郷社 加久留神社 祭神 息長帯比売命 誉田別命 玉依比売命 元と八幡宮と称す、創立年代詳ならず、但し、延喜式内社賀久留神社は当社なりといふ、式社摘考には、「賀久留神社、呉松村の鹿島大明神なりといへども、未詳」と記し、風土記伝には、 「神ケ谷村八幡是也、云々、神主曰齊神号云々、社北有賀久礼池加久礼川云々」 といひしより、學者皆当社を以て賀久留神社なりといへり、賀久留神社は、三代實録に、「貞観4年5月戊辰朔、遠江国賀久留神授従五位下」と見えさせ給ひ、延喜の制小社に列せらる、旧と朱印十石を有せり、往古は知らず、応永26年4月15日、寛文5年正月28日再建のことあり、明治6年3月郷社に列し、16年今の社号に改む。 社殿は本殿、拝殿、其の他社務所、宝庫等を具備し、境内は680坪(官有地第一種)あり、当社の神宝には龍の面あり、裏に「文治2年造之」と見えたるよし、風土紀伝に見えたるが、今尚現存す、但し文治2年造之とありとするは誤にして、天元の二字ありといふ。 明治神社誌料 |