雄踏図書館の南に鎮座する。 この地は三方原台地の南端に接して、浜名湖に面する沖積平野上で、今切口ができる前までは條里制が施行された水田地帯であつたと思われる。 社名は沖にいます神海神をまつることに発していたと思われる。 中古、山城国稲荷大神を勧請し稲の神として、米大明神と称した。この「米」が「許部(こべ)」の音に通じることから式内社・許部神社とする説がある。 |
息神社由緒 息神社由緒 一、祭神 志那都比古神 志那都比売神 宇迦之御魂神 猿田毘古神 大宮比売神 一、例祭 10月10日近土日 一、田遊祭 3月初牛日 一、宝物 古面 七 獅子頭 二 県文化財指定 一、由緒 文武天皇慶雲2年(705)の勧請延喜式神名帳所載式内社。 仁寿2年(852)従五位下を受け官社に列せらる。中古山城国稲荷山の三神を迎え米大明神と称す。 徳川氏統一後諸政緒に就くに至り慶安元年(1648)徳川家光公より朱印拾石下附せられ、寛政10年神祇伯王殿より正一位神璽を賜る。 明治6年郷社に列す。 明治28年5月内大臣より許可得息神社に復帰す。 社頭掲示板 |
社名 旧國史大系本、『遠江國式社考』、『大日本史』は「オキノ」であるが、吉田家本、九條家本、内閣文庫本では「ヤスミノ」。『遠江國式内社摘考』では「ヤスラ」、「イキノ」と二つの読みをつけ、『遠江國風土記傳』では「ソクの社」としてゐる。これほど社名が一致してゐない神社も珍らしい。『神社要録』をはじめ現在では「オキノ神社」といつてゐる。内閣文庫本、京大本、林文庫本などでは「息」の字を「恩」と書き誤つたために「オムノ神社」としてゐる。 式内社調査報告 |
息神社 文武天皇慶雲2年(705年)の勧請。 延喜式神名帳所載式内社。 仁寿2年(852年)従五位下を受け官社に列す。 山城国稲荷山の三神を迎え、米大明神と称す。 明治6年、郷社に列す。 明治28年5月、内大臣より許可を得て、「息神社」に復帰す。 静岡県神社庁 |
息神社 息は於岐と読り〇祭神在所等詳ならず 参考云、在宇布見村、 神位・官社 文徳実録、仁寿2年閏8月戊辰、授遠江國息神從五位下、同月丙子、以遠江國息神、列於官社、 神社覈録 |
郷社 息神社 祭神 志那都比古神 志那都比売神 宇迦之御魂命 猿田毘古命 大宮毘売命 旧と米大明神と称し、又そくの社とも称せりと、創立年代詳ならず社伝に慶安2年の創建なりといへども、延喜式内社息神社は当社なりといふ、当社が息神社なることは、応安7年7月奉造の獅子頭に、息大明神と記し、風土記伝に、「称そくの社」覈録所引の参考に「在宇布見村」神社拝礼記に、「息神社、宇布見村鎮座、云云、米大明神奉崇敬」遠江国式社考に「息神社、宇布見米大明神、などと見えたるを以て知らる、息神社は文徳実録に、 「仁寿2年閏8月甲子朔日戊辰、授遠江國息神従五位下、云々、丙子以遠江國息神例於官社」 と見えたる社なり、又当社を式の許部神社に擬するものあり、然れどもそは単に米と許部との音近しといふまでにて、何等の証左なし、(浅馬八幡宮参照)中古村民の信仰に依り、山城の伏見の稲荷大神を勤請合祀以来、息神社の社號を改めて米大明神とす、文亀元年5月7日、地頭中村新左衛門正實本殿再建、次いで天正14年3月、徳川家康又再営せり、社領は、「朱符之神田高十石」と風土記伝に見えたるが、明治6年3月郷社に列す、社殿は本殿、雨覆、拝殿等を備へ、境内は296坪(官有地第一種)を有す。 明治神社誌料 |