津毛利神社
つもりじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】津毛利神社 遠江国 敷智郡鎮座

   【現社名】津毛利神社
   【住所】静岡県浜松市南区参野町 112
       北緯34度41分35秒,東経137度45分19秒
   【祭神】底筒男之命 中筒男之命 上筒男之命
   10月第2日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】養老2(718)摂津の住吉大社を勧請した
       明治6年郷社四十六所神社と改称
       同11年津毛利神社と改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】津か?
   【祭祀】江戸時代は「四十六所大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造 
       拝殿・随身門・御酒殿

   【境内社】須賀神社・息太夫神社・金山神社・八幡神社・日枝神社・天神社
        愛宕神社・廣田神社・伊熱大神宮・伊雑宮神社・諏訪神社・御手洗水神社


養老2(718)遠州灘の海難防除を願つて摂津の住吉大社を勧請したものであるという。
創建当時は鳥居前まで波が打ち寄せていたという。
社名は「津守」神社の意ではないか。
西舞阪より東掛塚にいたる46村の総鎮守。
江戸中期までは当社が津毛利神社であるとの伝承はなかった。


由緒

天正天皇の御代舎人親王藤原不比等公勅を奉じ遠江灘の鎮守として摂津の住吉神社より荒魂を勧請奉祀す。延喜式所載の津毛利神社是なり。西舞阪より東掛塚に至る46村の総鎮守として崇敬され、46所大明神とも奉唱さる。明治6年郷社に列せられ、戦後神社本庁所属神社となる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




津毛利神社

社名 津毛利神社
祭神 底筒男之命 中筒男之命 上筒男之命
創立 養老2年(718)
所在地 浜松市参野町 113
氏子区域 参ノ町 芳川町 本郷町 本郷東
例祭 10月10日
沿革
元正天皇の御代舎人親王藤原不比等公勅を奉じ遠江灘の鎮守として摂津の住吉神社より荒魂を勧請奉祀す。
延喜式所載の津毛利神社是なり、西舞阪より東掛塚に居たる四十六ヶ村の総鎮守として崇敬され四十六所大明神とも奉唱さる。
明治6年郷社に列せられ戦後神社本庁所属神社となる。

社頭掲示板



王の舞面

昭和56年3月16日 県指定彫刻
浜松市教育委員会
舞楽は普通「左方の舞」と「右方の舞」とを組み合わせて一番として舞う。
この面は貴徳の面と伝承され右方の舞に属し、左方の舞の散手と対になって舞われる。また偉丈夫の相を示し、鼻高くきびしい表情で、力強く、鎌倉時代の中央仏師の作と推定される、形のくずれもなく、また漆のはがれも少なく、ほぽ完全な形で保存されており地方に伝わることは数少ない貴重な面である。

社頭掲示板



津毛利神社

浜松市南区参野町113番地
祭神 底筒男之命 中筒男之命 上筒男之命
養老年中(717−19)約1300年前、奈良時代
藤原不比等らにより建てられました。
沿革(うつりかわり)
遠州灘は海の交通の難所でしたので当時の元正天皇の御代、勅命により遠州灘の鎮守として摂津の国、住吉神社より荒魂をされ当時は海岸であった当地に奉祀され津毛利神社と称し掌りました。1300年ほど前です。創立当時は海岸でしたが、その後次第に土砂が堆積して開拓が進み、村数も舞阪から掛塚まで、四十六ケ村の総鎮守としで津毛利神社四十六ケ所大明神と奉唱し尊崇されました。その後各村に末社が造立されそれぞれで祭事が行われるようになりました。
徳治元年(1350)より大伴氏の末斎桑原家により代々神主をされて参りまして、その後は、何人か変わられまして現在は森志朗様が神主を御勤めされております。 明治初期に、教育制度が制定され神社境内の施設で都盛学校が開設されまして、この神社は子弟教育の発祥の地でもあります。氏子区域ぱ本郷町、本郷町東、参野町、芳川町の三町四区で官理されています。当地域には数少ない式内社として由緒ある古い神社であります。
現況.
当拝殿は築120年以上で、たび重なる戦禍と震災にも耐えて来ました貴重な建物です。大切に保存しましょう。

社頭掲示板



津毛利神社

津毛利は假字也○祭神饒速日命、(風土記)○在所詳ならず〇総國風土記四十四残欠云、
智郡津氣里神社、圭田四十八束、天武天皇2年癸酉8月、所祭饒速日命也、(以下虫食)
連胤云、風土記津毛利の毛を氣に訛れるか、亦は此式の方誤れるか、猶考ふべし、」参考云、在馬郡村、今称春日神

神社覈録



郷社 津毛利神社

祭神
 底津綿津見神 上津綿津見神 中津綿津見神
 中筒之男命 底筒之男命 上筒之男命
合祭
 稻荷神社 祭神 倉魂命 荒祭神社 祭神 枉津日命
 三社宮 祭神 和多津美命
大日霊尊 猿田彦命
社傳に云く「当國の南海は、所謂遠江灘にして、波濤暴激、通船無隻の難所なるを以て、元正天皇の御宇、舎人親王、右大臣藤原不比等、奉勅、遠江灘の鎮守として、養老年中、海岸に勧請し、津毛利神と號す、延喜式神名帳所載の敷智郡津毛利神社是なり、云々」と、当社が津毛利神社なることは、遠江國風土記伝に、
「参野者、齋海神三座之地、號三神野、按敷智郡式内津毛利神社是乎、齋神號、底津綿津見神、中津綿見神、上津綿見神、墨江三前大神也)
と見え、次いで神祇志料、特選神名牒等皆斯説に從へり、延暦年間、三百貫文の社領寄進あり、後ち徳治元年九條関白の吹挙に依つて三十六貫文を賜はり、貞和3年足利尊氏より二百貫文、織田氏の世となり亦同断たり、天正19年豊臣秀吉、社領判物残らず取上げ、改めて八十石寄進せり、当時神主上京、先規の如く二百石寄進の儀歎願に及びしに、允許せられ、其の旨五奉行長束大内藏より、濱松域主堀尾帯刀へ申送り來りしが、後ち朝鮮役に引続きて秀吉薨去あり、剰へ堀尾氏も不慮のこと出来、神主も病死せしかば、遂に此の事沙汰止となりしと、徳川氏に至り社領として八十石を寄せらる、諸社御朱印写に云く、
「遠江国長上郡四十六所明神社領、同野参野村之内五十一石三斗除、恩寺村之内五石八斗除、彌十村之内五石八斗余、本郷村之内拾一石、安松村之内三石、原村之内三石、都合八十石事、並社中竹木諸役等免除、任慶安元年2月24日先判之旨、永不可有相違者也、
寛文5年7月11日」
当社旧と四十六所明神と奉称す、社伝には、遠江灘の鎮守として鎮座の後、漸く海岸に土砂打寄せて州を為す、依りて土民追々開墾して、遂に村落四十六ヶ村に及ぷ、之に依りて中古以来四十六所云々と称せりと、風土記傳に亦説あり、云く、「四十六所者、摂社数也、参野以南迄海嶋齋此神社(今記神主語)と見えたり、古来近螂一帯四十六ヶ村の惣鎮守、又は、遠江灘鎮守と奉称せるが、明治6年3月郷社に列し、11年12月24日、官許を得て今の社號に改む。
社殿は本殿、拝殿、其の他社務所、神酒殿等を備へ、境内1205坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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