浜松八幡宮
はままつはちまんぐう 所在地 社名















   【延喜式神名帳】許部神社 遠江国 敷智郡鎮座

   【現社名】浜松八幡宮
   【住所】静岡県浜松市中区八幡町 1
       北緯34度42分57秒,東経137度44分12秒
   【祭神】玉依比売命 品陀和気命 息長足姫命
   【例祭】8月15日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】仁徳天皇、海運安穏のため現小沢渡町の許部の里に創始
       天慶元年神託によって当地に遷
       永承6年(1051)八幡太郎義家が東国下向の折八幡神二神を勧請
       永享4年(1432)足利義教駿河下向の折、社頭で酒宴
       元亀元年(1570)6月徳川家康浜松へ入城に際し祈願所
       明治6年郷社
       同40年神饌幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初現小沢渡町の許部の里に鎮座
        天慶元年神託によって当地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡宮」と称していた
   【公式HP】 浜松八幡宮
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】浜松稲荷神社・東照宮

遠州鉄道八幡駅南に鎮座する。
仁徳天皇の御代、海難鎮静のため玉依比売命を敷智郡蛭田(ヒルタ)郷許部里(現在の浜松市小沢渡の辺)に祭つた。
天慶元年(938)に曳馬の里の現在地に遷座した。
永承6年(1051)八幡太郎義家が東国へ下向の折、当社の桶の樹下に八幡神二神を勧請したため八幡宮と改称したという。


由緒

社伝によれば、仁徳天皇、遠津淡海の海運安隠のため、海神、玉依姫命を、現小沢渡町の許部の里にお迎えしたとあります。この許部神社は、「延喜式」の敷智郡6座の神の中に登録され、極めて由緒のある神社であります。その後、938年、朱雀天皇、天慶元年に、神託によって当地に遷されました。その節、白狐が老翁の姿となって「浜の松」を移し植え。「浜松」の地名となったとも伝えられております。この翌年、将門が常陸で、翌々年藤原純友が伊予で反乱を起こしたため、石清水八幡宮の神霊に頼る信仰が盛んになった頃でありました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




浜松八幡宮由緒

浜松八幡宮由緒
平成元年8月吉日編集
「祭神」
玉依比売命  たまよりひめのみこと
品陀和気命  ほむだわけのみこと(応神天皇)
息長足姫命  おきながたらしひめのみこと(神功皇后)
伊奘諾尊   いざなきのみこと
伊奘冉尊   いざなみのみこと
八幡宮の御祭神は、品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)であって、石清水八幡宮は中御前の応神天皇をはさんで、東・西御前にそれぞれ神功皇后、宗像三神をお祀りしてあります。当社でも、馬込町に在った白山神社の祭神である、伊奘諾・冉尊と下垂に祀られていた玉依比売命を本殿に遷し、祀ってあります。
749年、天平21年に、聖武天皇は、大仏鋳造に神の援助を仰ぐため、宇佐神宮より八幡神を迎えられ、更に859年、清和天皇、貞観元年に僧行教によって、同じく宇佐八幡神を男山に迎えました。神功皇后摂政時代の国威発揚期の人心や、応神天皇時代、有力帰化人による文物伝来の伝承を史実として回顧した当時の人びとの心情によって、単なる産土神や、氏神でなく、「国家の祖廟」、「鎮護国家」の神として、伊勢の皇大神宮に次ぐ崇拝をうけるに至りました。
諾冉二尊は、神話では「国生みの神」。玉依姫命は、神武天皇の生母として語られ、民族信仰上、祖先神として敬われた神々であります。 源義家が男山八幡宮神前で元服したという伝承によって、武家の棟梁源氏の氏神となったことから、八幡信仰は、中世以降さらに大きな地歩を固めました。この過程において、極めて自然に神仏習合の信仰が浸透して、八幡大菩薩の称号も生れました。
「社伝及び郷土史家研究に基く由緒」
社伝によれば、仁徳天皇、遠津淡海の海運安穏のため、海神、玉依姫命を、現小沢渡町の許部の里にお迎えしたとあります。この許部神社は、「延喜式」の敷智郡六座の神の中に登録され、極めて由緒のある神杜であります。その後、938年、朱雀天皇、天慶元年に、神託によって当地に遷されました。その節、白狐が老翁の姿となって「浜の松」を移し植え、「浜松」の地名となったとも伝えられております。この翌年、平将門が常陸で、翌々年藤原純友が伊予で反乱を起したため、石清水八幡宮の神霊に頼る信仰が盛んになった頃でありました。
「武家の信仰」
1051年、後冷泉天皇、永承六年、八幡太郎義家が、陸奥に出陣の際、当社に参篭し、源氏の氏神である八幡社を喜び、武運を祈って 契あれば帰り来るまで石清水
   かけてぞいはふ浜松の里
と詠進し、武運を祈って社前の楠の下に旗を立てたと伝えられ、「御旗楠」とよんでおりました。これが、現存する「雲立の楠」の起源とされています。
1432年、後花園天皇永享四年、義政将軍が富士山を慕って駿河へ下向した際、先述の小沢渡町より移した松が成長して臥竜の様に這い伸びている姿を見て、「浜松の音は颯々」と謡ったといい、この松を「颯々の松」と語り伝えられてきました。この縁起は、現在、野口町に石碑が残されていますが、昭和20年の空襲によって焼失して、今の松は三代目であると郷土史・『浜松の史跡』で述べております。
1570年、正親町天皇、元亀元年6月、徳川家康が岡崎より浜松へ入城した時、源義家の東征祈願の由緒があり、更に鬼門鎮守の氏神として信仰厚く、1586年、駿府に移るまで、当社を祈願所として数度社参して、武運長久を祈ったと伝えられています。更に、1572年、元亀3年12月、三方原合戦に敗れた家康は、天林寺に入り、義俊和尚が案内して当八幡宮に逃れ、義家ゆかりの「楠」の洞穴に潜み、甲州勢の追手を逃れて武運を祈願した時、楠の上に瑞雲立ち昇り、神霊が白馬に跨り、浜松城方面へ飛び立ちました。家康は八幡宮の加護により「戦われに利あるべし」……と勇躍、城に帰り、犀ケ崖に布の懸橋を渡して、武田信玄の入城を防ぐことができました。有名な酒井忠次の陣太鼓の武勇伝も、この時のことであります。
これにより、家康開運の杜前の楠(「御旗楠」)を「雲立楠」と呼ぶに至りました。これらの伝承は、古老・郷土史家の伝える諸説であります。その後も家康は代々当杜を祈願所として、旗・神馬を奉納いたしました。
豊臣秀吉は、北條氏征討の資金を調達するため、神領を没収し、寺島八幡の社領であった現在の寺島町・旭町附近のみを、八幡地として残しました。1603年、家康は征夷大将軍に任ぜられ、歴世・社領五十石の朱印を与えましたが、明治新政権により上地とされ、同年、郷社に列しました。
「八幡宮に合祀された諸社」
明治末年、祠官近藤伊織氏上申による、静岡県庁・社寺課の認可によれば、
相殿 天之御柱命 国之御柱命
   神倭伊波礼毘古(神武天皇)
   大気都比売命 伊佐波登美命
   神直日神 大直日神
   猿田彦神 蛭児神
とあり、この神々は現在境内末社・浜松稲荷神社に祀ってあります。
又、東照宮も一宇、氏子八百七拾戸とあり、この神祠は、同じく現在境内末社の東照宮に祀ってあります。
明治44年2月6日下垂・無格社池神杜合祀の許可
同5月8日野口・無格社颯々神社合祀の許可
昭和4年8月13日 早馬町浜松稲荷神社合祀の許可等が記載されております。
昭和年月不明 馬込町白山神社合祀
静岡県浜松市八幡町一番地
浜松八幡宮社務所

社頭掲示板



浜松八幡宮

創祀は仁徳天皇の御代 遠津淡海の鎮静の為、許部の里に海神の玉依比売命を勧請し奉斎したと伝えられます。
延長5年(927)延喜式に遠江国敷智郡六座の神の一座 許部神社と所載されています。
天慶元年(938)神託により許部の里から曳馬の里(現在地)に遷座、この時 白狐が老翁の姿で松の小木を携えこの宮地に導き松を移し植えた。この故事により「浜の松」すなわち「浜松」の地名になったといわれています。
永承6年(1051)源義家(八幡太郎義家)が陸奥へ下向の折、神社の傍らの楠の下に旗を立て八幡二柱の神を勧請し、和歌一首を奉ったといいます。これにより、この楠を「 御旗の楠 」(ミハタノクス)と称するようになりました。 
永享4年(1432)六代将軍足利義教が富士を見ようと駿河の国へ下向の折、繁茂し臥龍の如く這い伸びる「浜の松」の下で富士を遥かに望み、浜松の音は颯々(ザザンザ)と謡い、里人はこの松を「颯々の松」と称するようになりました。
元亀元年(1570)徳川家康公は、居城を岡崎より浜松へ移し、八幡宮が源義家勧請の武家の守護神であり、浜松城の鬼門の方位にあることから鬼門鎮守、鬼門降伏の氏神として信仰し武運長久を祈り度々参拝したといわれます。
元亀3年(1572)三方原合戦に敗走した徳川家康公は八幡宮に逃れ、社前の楠の洞穴に潜み、神明の御加護によって武田勢の捜索を逃れました。その時、この楠より瑞雲が立ち上った事から、以後「雲立の楠」(クモタチノクス)と呼ぶようになりました。
その後、徳川家康公は八幡宮を徳川家代々の祈願所と定め、旗、弓、神馬を奉納、家康公が江戸に府在の折は、名代を使わして参拝したといわれます。
慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられた徳川家康公より社領五十石の朱印を与えられ、幕府より歴世朱印を与えられたといいます。
大正13年(1924)松島十湖の句碑が浜松俳壇によって建立される。
「 はま松は 出世城なり 初松魚 (ハツガツオ) 」

公式HP



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