岐佐神社
きさじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】岐佐神社 遠江国 敷智郡鎮座

   【現社名】岐佐神社
   【住所】静岡市浜松市西区舞阪町舞阪 1973
       北緯34度41分1秒,東経137度36分40秒
   【祭神】蚶貝比売命 蛤貝比売命 (配祀)市杵島比売命
       『遠江国風土記伝』に「此所の海蚶(ギサ)貝、蛙蛤(ハマグリ)多し」とあるやうに、
       遠州灘と浜名湖の間に鎮座しているところから貝を擬人化した神が祭られた。

   【例祭】9月15日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】明応7年(1498)大地震、大津波で現在地に漂着
       天正2年(1574)造営
       慶長6年(1601)伊奈忠次より三石
       慶安元年(1648)徳川家光より五石
       明治6年郷社、岐佐神社と改称
       同12年神饌幣帛料供進社に指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初は今の弁天島かもう少し西の方にあつたと思われる
        明応7年(1498)大地震、大津波で現在地に漂着

   【祭祀対象】貝
   【祭祀】江戸時代は「八王子明神社」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿

   【境内社】護神

舞阪小学校南、遠州灘に面する砂丘上に鎭座する。
岐佐神社は今の弁天島かもう少し西の方にあつたと思われるが、明応7年(1498)の大地震、大津波により社殿は波に流されて現在地に漂着した。このためそこに社殿を建てて祭るようになつたと伝える。
祭神は遠州灘と浜名湖の間に鎮座してゐるところから貝を擬人化した神が祭られたのであろうか。
例大祭 旧暦9月14日・15日(旧暦9月15日は必ず満月であり大安の日でもあるから縁起がいいといつて、祭日を変更しようとする気配はない。)旧舞阪町内には神社が1社なので、全町民こぞって参加し、町内がまつり一色に包まれます。もともと漁師町なので元気よく、神輿(みこし)を中心に、直径2.5メートルの大太鼓8台などで、朝から夜が更けるまで町内を練り歩く。


由緒

当社は、静岡県浜名郡舞阪町(まいさかまち)に鎮座しており、神社界の最も古い記録といわれる『延喜式 神名帳(醍醐天皇延喜5年・西暦927年)』によれば遠江国六十二座、敷智郡六座の一社として『岐佐神社』の名が記録されており、このグル−プの千数十年以上の 古いご由緒を持つ神社を『式内社』と呼ぶ。
神社覈録(かくろく)によると「孝徳天皇3年(大化3年 647年)丁未11月 『岐佐神社に、天児屋根命を祭る。』とあり、亦、特撰神名牒には「蚶貝比売命・蛤貝比売命を祭る」とある。仮に、大化3年に岐佐神社が創建されたとしたら、既に1340有余年を経ていることになる。遠江国風土記傳に「昔、象島(きさじま)と号せし所以は、此地海中に岐佐貝多く生ずればなり、後、澤となり廻澤と号す。其の澤も亦海と為る。」とある。これらを総合すると御祭神の『蚶貝比売命』と郷名『象島』は『キサガイ』(あかがい)とは関係が深いものと思われる。
岐佐神社の境内に産土神 俗に御親様(護神様)といわれている神社がある。この御親様(護神様)には 皇太神宮(天照大御神・豐受大御神) 春日大社(天児屋根命) 津島神社(須佐之男命)の御分霊をお祭りしているので、神社覈録では「岐佐神社に天児屋根命を祭る」といったのであろうか。『岐佐神社由来記』に「明応の変(明応7年、 1498年8月25日)に舞澤の郷は、人家と共に海中に漂没せり。この変に 満目荒涼・四顧粛条たる堆砂の丘の上に柳の古木あり、その下に小神祠漂着あり『敷智郡岐佐神社』とあり。駅長浅野美時 三十六屋敷の里人と其所に社殿を造りて之を祀る。」とある。これが、現在の鎮座地である。(旧鎮座地は、辨天島の付近であっただろうか?)
御祭神[蚶貝比売命・蛤貝比売命]に関する神話
奈良時代(712年)に書かれた『古事記』に、次のように記されている。
大国主命とその兄君の八十神とが恋争いの末、大国主命が八上比売命と結婚する。恨みに思った兄君たちは、「手間山から赤猪を追い出すから捕らえろ。」と言い付けて真っ赤に焼いた大石を転がした。その石を抱き止めた大国主命は、大火傷を負って死んでしまわれた。悲しんだ母君の切なる願いで、神産巣日神の御子蚶貝比売命は『あかがい』の貝殻で白い粉を作り、蛤貝比売命は『はまぐり』の水を出して練り合せ、乳汁のような膏薬を作り、全身に塗り付けた。大国主命は、元の麗しい元気なお姿におもどりになられた。
棟札  天正2年(1573年)3月11日 本殿再建 以来十一枚の棟札を保存す。
墨印状 慶長6年(1601年)2月15日 伊奈備前守忠次公より、本社神領として墨印石高三石の寄進あり。
朱印状 慶安元年(1648年)三代将軍徳川家光公より右神領を御朱印状(高五石)に改め御寄進あり。綱吉公・吉宗公・家重公・家治公・家斎公・家慶公・家定公 家茂公よりも同様の御朱印状を受ける。
祭禮  旧暦9月14日・15日
慶安元年(1648年)『祝詞』、安永5年(1776年)『幟建立発願』などの古記録によると江戸時代初期には、現在のような祭禮が行なわれていたものと思われる。神輿は文政元年(1818年)名古屋より購入せしものなり。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




岐佐神社御由緒

祭神 蚶貝比売命 蛤貝比売命
平安時代に書かれた「延喜式神名帳」に遠江国62座・敷智郡六座の一として記載されており千年以上の古社である。
明応7年(1498)の地震津渡では浜名湖の湖口が切れて今切となり、舞澤の郷は人家と共に水中に埋没した。
満目荒涼たる砂丘上の柳の古木の根本に『岐佐大明神』の小神祠を見つけ住民は社殿を建立して祀った。
これが現在の御鎮座の地である。
無事難を逃れた住民は付近の松原に部落を作り現在の舞阪町のもとをなした、これを三十六屋敷という。
天正2年(1574)以釆、数次の本殿・拝殿再建の棟札を保存している。
慶長6年(1601)伊奈忠次公より御神領三石、慶安元年(1648)徳川家光公より御朱印状により御神領五石を奉献され明治維新に至る。
明治6年(1873)郷社に列し、大正9年神饌幣帛科供進指定社となる。
現在の社殿は大正元年の造営である。

社頭掲示板



赤石の御由来

古事記に登場する「因幡の白兔」に続くお話です。
大国主命は、兄君たちとの恋争いの末、八上比売と結婚の約束をします。恋に破れた兄君たちは、大国主命を、手間山に呼び出して殺そうとはかり、「山の上から猪を追い降ろすから、山の下で捕えろ」と言いつけて、真っ赤に焼いた大石を、転がり落しました。
この大石を抱きとめた大国主命は、大火傷を負い、命を落しました。これを知って悲しんだ母神は、天上の神皇産霊神に命ごいをされます。
神皇産霊神は、娘神で岐佐神社の御祭神である『蚶貝比売命・蛤貝比売命』に言いつけて大国主命の治療に当たらせます。蚶貝比売命(赤貝の神)は、貝殻を削って白い粉末を作り、蛤貝比売命(蛤の神)は、粘液を出して練り合わせ、どろどろした母乳のようなものを作り、大国主命の全身に塗りました。すると火傷はすっかり治り、大国主命は雄々しい姿によみがえったのです。
出雲神話と岐佐神社は、このようなかかわりがあり、ここに『赤石』がまつられています。御祭神が海に関係するところから、水産・漁業の守り神であるとともに、この神話に因んで、火傷・病気にも霊験あらたかと信仰を集めています。

社頭掲示板



岐佐神社

古事記(712年)「因幡の白兎」に続く話。
大国主命は、八十神等の騙し討ちにより、赤猪に見立てた大きな焼けた岩を抱きとめ大火傷を負う。母神(刺国若比賣命)の願いにより神産巣日神は、蚶貝比賣命と蛤貝比賣命を使わす。蚶(あかがい)の白い粉と、蛤(はまぐり)の粘液で膏薬(こうやく)を作り治療すると、大国主命は元の麗しいお姿に戻られた。
これにより、健康・長寿の神、また怪我・病気平癒の神と崇められている。
延喜式神名帳(927年)には、遠江国六十二座、敷智(ふち)郡六座の一座と登載される。
明応の津波(1498年)により、舞澤(まいざわ)の郷と共に流され、東の松林(現在地)に漂着す。
伊奈備前守より墨印石高三石(1601年)、三代将軍徳川家光公以下の歴代将軍より朱印五石を賜る。
明治6年、郷社に列す。
大正13年、神饌幣帛料供進社の指定を受ける。

静岡県神社庁



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