明応7年(1498年)の大津波で荒井崎(現 湖西市)の集落が流され、鎮守の神である角避比古神社も流された。その時集落の住民とともに角避比古神社の御神体の宮船が、小人見村(現 古人見町)の古橋七兵衛家の西側の岬に流れ着いた。現在、その漂着地点には小祠があり、元文2年(1737年)と寛保元年(1741年)の石籠がある。 昭和27年(1952年)、宮司・氏子総代連署の申請書に、口碑で伝えられている事や古橋家の文書をもとにした調書を添えて神社庁に提出、合祀が許可された。 |
若御子神社 御祭神増祀につきまして 角避彦神(往古より浜名湖口付近に鎮座あらせられました)文和風土記によれば(西暦535年宣化天皇祭祀す)とあります。又延喜式神名帳によれば「名神大社の社格を典へらる」とあります。尚文徳天皇実録によれば西暦950年文徳天皇嘉祥3年8月3日官社に列せらる、詔に曰く「是より先奉言ありこの神は叢社なり大湖に厳臨す湖水の漑ぐ所挙土利に頼る湖口に一口あり開塞常なし湖口塞ぐれば則ち民水害を被り湖口開かば則ち民豊穣に至る或いは開き或いは塞ぐ、神実に是をなす請くば崇典を加へ民の為に利を祈らんと之に従ふ」とありまして実に此の神は広く海洋を守護あらせられ国土を拓き五穀を守り其の御霊験によって湖口付近は勿論湖内外周辺の住民は海陸の安全を得られたのであります。然し乍ら湖口開塞常なく明応8年6月12日の大異変に大怒■起り湖口蒼海と変わりました。万物或は没し或は流され恐多い事ながらも角避比古神社と共に行方不明となられたので御座います。 御神宝と崇め奉る宮船は字中島の七兵衛海岸にお着になりました。是偏に御神意でございます。官主七兵衛自宅前の清浄な所へ一時奉安申上げ間もなく氏神若一王子社へ奉遷申上以来氏子一同崇敬して現在に至ったので御座います。 角避比古神を御奉祀申上げることは古来からの民間信仰でございまして口碑伝承を保持して行き今回当神社の御祭神として御奉祭申上げ氏子崇敬者の信仰的希望は達成され永年に亘る強い念願が叶い12月9日を以て神社本庁のご承認を得て茲に正式に御増祀申上げろことが出来ましたことは氏子一同共にお喜び申上げる次第であります。 昭和27年12月15日 社頭掲示板 |