八柱神社の創建年等は不明であるが、江戸時代までは、ここから200m程南の八柱神社神官・袴田家の邸内に在って八王子寺社と呼ばれていた。 明応7年津波により、浜名湖の湖口に祀られていた角避比古神社が流失し、神社の一部と「幟」が村の西側の岸に流れついた。その時、一緒に村櫛に漂着した者が新たに祠をつくり、従来からの産土神である八王子神とともに祀ったと言われている。 |
八柱神社 今回は町の氏神である八柱神社の歴史、境内の石造物や祭事などについて述べる。 八柱神社は町の中心部にあり、昭和40年代ごろまでは、境内には大きな松が何本も残っており「杜」の感じであったが、残念ながら松食い虫のため伐採されてしまった。だが境内は何か静かな落ち着きを感じるところだ。 この八柱神社の創建年等は不明であるが、江戸時代までは、ここから200m程南の八柱神社神官・袴田家の邸内に在って八王子寺社と呼ばれていた。 伝承では、浜名湖と外洋がつながった時の地震(明応7年)と津波により、浜名湖の湖口に祀られていた角避比古神社が流失し、神社の一部と「幟」が村の西側の岸に流れついた。その時、一緒に村櫛に漂着した者が新たに祠をつくり、従来からの産土神である八王子神とともに祀ったと言われている。今も神社の祭の日には御旅所の入口に「 都迺佐玖彦(つのさくひこ) 神社」の幟が氏子達により立てられる。 また、袴田家に残る古文書(1727年)に「八王子大明神は、古い昔盛んであったとき村の南東湊崎に面して鎮座していた。社内は一辺が八町の方形で神領は50石であった。そして敷智庄の村民の氏神として敬拝され、神威もまた盛んで在った。」とある。八王子社は明応の地震・津波以前には広い境内を持っており、村櫛荘の氏神として敬拝されていたことが伺われる。 八王子社は、江戸中期の享保12年(1727)に 卜部(うらべ) 神(しん) 道家(どうけ)より正一位八王子大明神の称号を受け、以後、八王子大明神と称するようになった。 明治になり、新政府の神道国教政策による「 廃仏(はいぶつ) 稀釈(きしゃく) 」の運動が起こり、村内の5つの寺のすべてが廃寺となり、村内は神道に統一された。このため、神官邸にあった八王子大明神は大日堂があった現在の地に移転した。また、神社名も仏教に関係する名前は使えなくなり、明治3年(1870)八柱神社と改められた。ちなみに市内で八柱神社と呼ばれている神社は、白洲町の宇気比神社を始めとして八王子神社から八柱神社に変わったところが数多くある。さらに村の各所にあった浅間神社など小さな社(14社)は八柱神社に合祀され、津島神社、天神神社、稲荷神社の3社が境内西南に祀られた。 神社の拝殿は、旧大日堂の建物を使用していたが、明治25年(1891)に新しく建立された。この時、神社北側の山にあった大松が建築資材として使われたという。この拝殿は19坪余と近隣の拝殿と比べて広いものであり、当時の村の財力と村人の意気込みを感じる。 境内には、多くの石造物がある。一番古いものとしては、寛政5年(1792)の灯籠で、八王子大明神御社燈や牛頭天王御社燈と刻まれたている。また浜松西部地区では一番古い鳥居[文政9年(1826)]や268本に奉納者の名前が刻まれた玉垣などがある。神社の整備については全国的に統一した指導で行われたようで、鳥居・灯籠・狛犬など石造物の配置は、どこの神社も同じようになっている。浜松市の西部地区内の石造物は、明治28年(1895)の日清戦争の勝利から昭和15年(1940)の皇紀2600年記念式典前後の約50年間に特に多く造られている。 村櫛町自治会 |
八柱神社 もとは八王子大権現後に大明神と称し明治3年より八柱神社と改める 祭神 忍穂耳命 天之補日命 天津彦根命 活津彦命 熊野檬樟日命 田心姫命 瑞津姫命 市杵島姫命 由緒 八王子大明神の御神号 神代の巻に天照大神 素戔鳴尊の佩ける十握剣を所望されその剣を三つに折り天真名井水で洗い清め噛みくだき吐きだす息吹の霧でお生まれになった神を田心姫命瑞津姫命市杵島姫命という凡て女神であった。 素戔鳴尊天照大神より髪にまかれる八坂の勾玉御統の珠をいただき天真名井の水で洗い清め噛みくだき吐きだす息吹の霧でお生まれになった神を天之忍穂耳命、天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野檬樟日命という凡て男の神であつた 創建年月日は不詳である 当社は応永13年(1406)8月24日地震大津波のため流社になった式内名神大神社角避比古神社の人たちが新にほこらを建てて祭りまた元この地の産土神八王子社と共に奉斎したものと言い伝えがある 慶安6年(1653)2月14日伊奈備前忠次は台命を奉じて黒印二石を寄進せらる、爾来徳川家より代々寄進を受ける 享保12年(1727)6月宗源宣旨をもって正一位を授けられた 維新前、領主大沢家より年々御初穂米一俵ずつ奉納される 明治6年(1873)3月5日郷社に列せられ明治40年(1907)1月12日幣帛共進社となる 社頭掲示板 |