角避比古神社
つのさくひこじんじゃ
廃絶し現在不詳 所在地 社名






   【延喜式神名帳】角避比古神社 名神大 遠江国 浜名郡鎮座 

   【現社名】廃絶
   【住所】−−−
   【由緒】嘉祥3年(850)8月3日列官社

              
   【祭神】『文和風土記』『遠江国風土記傳』素盞鳴尊
       『度会氏神名帳考証』『伴信友神名帳考証士代』野見宿禰命

   【例祭】−−−

社名は「ツノサクヒコ」と読むか。
角避比古神は津の幸彦の神にして湖口の開塞を知りて民の幸幅を知ります神で、水門の功徳を称え奉れる御名とする。
明応7年(1498)8月の大地震大海粛によつて現今の今切口を生じているが、角避比古神社の社地はその時点までは存在したと思われる。
このとき社地一切が失われたのではないか。
この地域に以下の3社がある。
@湊神社 新居町新居1788
A諏訪神社 新居町新居1379
B角避比古神社 新居町新居9
@Aを継承社とする説もあるが該当の社には伝承がない。
Bは不詳
明治4年角避比古神社は、遠江国の大社であるとして、国幣中社に列せられた。しかし、その論社の中から特定できずに鎮座地不明のため社格は除かれた。
元は浜名湖口の現在の湖西市側に鎮座していたが、明応7年(1498年)8月25日の大地震・大津波で流出した。


角避比古神社

當時の濱名湖は現今の今切附近未だ陥没せず、新居町濱名南方に向つて突入し、その先端より濱名川が流れ、松山辺より海に注いでゐた。右史料(文徳実録嘉祥三年記事)の湖口とは實は濱名南方突入の先端を意味する。この地点に濱名橋が架せられ、その橋畔に猪鼻駅や橋本宿が置かれたことは既に述べた通りであつた。されば濱名郡角避比古神社の位置も亦この附近に求むべきでは無からうか。鄙ち當社奉齋の意義は濱名湖口の支配外に濱名橋や猪鼻駅の守護といふ点にも存したのであつたらう。これ角避比古神社が『延喜神名式』に名神大社の社格を寄せられた所以であると思ふ。然るに現今新居町濱名に角避といふ小字が残つてゐる。また『遠江式社摘考』によれば敷知郡橋本村(即ち新居町濱名)の酉の方にあたり高師山峯続下諏訪山に往古大海水海帯の湊を詠め鎭座成玉ふ角避比古神社跡とて、今に五畝歩程平地あり、其麓の田畑を今に字角避下と相唱ふといふ説が見えてゐる。此等は何れも角避比古神社の新居町濱名鎭座説を有力ならしめるものと考へるが、今日その現在社に擬當すべき神社は存しない。恐らく當社は平安末期に於て屡々の海粛の爲めにか何時か流亡したのであらう。

『静岡県史(第三巻第九章神社)』昭和11年刊行



角避比古神社 名神大

角避は都能佐久と訓べし、比古は假字也、○祭神素淺鳴尊(風土記)○新井駅に在す、今湊大明神と称す、(式社考)例祭 月 日、』式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、遠江國角避比古神社一座、○惣国風土記四十三残欠云、遠江國濱名郡角避比古神社、浦無圭田有百五十束三字田、宣化天皇元年丙辰、所祭素淺鳴尊也、角避比古者尊之異名也、
東海道名所図会云、今橋本村にありて、上下諏訪大明神、或湊大明神といふ、水門の開塞を知しめす神とて、人呼で湊大明神といふ、今も江水に臨める社也、
官社
文徳實録、嘉祥3年8月戊申、詔以遠江國角避比古神、列官社、先是彼國奏言、此神叢社、瞰臨大湖、湖水所漑、挙土頼利、湖有一ロ、開塞無常、湖口塞則民被水害、湖口開則民致豊穰、或開或塞、神實為之、請加崇典、為民祈利、從之、

神社覈録



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