景行天皇19年8月の創祀で、新居宿の総氏神として、古来、延喜式内社浜名五座の一社で、猪鼻湖神社と称え猿田彦神を奉斎していたが、天正10年3月天目山の戦の後、山本勘助の重臣井口嘉末なるものが当地に来住し飯田嘉末と改姓し、信州諏訪大明神を勧請して本社に合祀してから、何時しか諏訪神社と称えるようになった。 当社を式内社・角避比古神社の後継社と考える説もある。 |
由緒 当社には、建御名方命外十三柱を奉斎し、四社十六柱を合祀している。景行天皇19年8月の創祀で、新居宿の総氏神として、古来、延喜式内社浜名五座の一社で、猪鼻湖神社と称え猿田彦神を奉斎してあったが、天正10年3月天目山の戦が終るや、山本勘助の重臣井口嘉末なるもの、当地に来住し飯田嘉末と改姓し、信州諏訪大明神を勧請して本社に合祀してから、何時しか諏訪神社と称えるようになった。 寛永13年霜月24日(諏訪神社の棟札)享保5年5月、宝暦3年6月、安永9年7月、寛政5年5月(猪鼻湖神社の棟札)文化11年6月(諏訪神社の棟札)これより現在まで諏訪神社と云う。 本社は、元浜辺に鎮座せられたが、明応、永正の高浪で大元屋敷に遷座し、又元禄4年3月18日に諏訪山に、宝永5年4月9日に現地に御遷座となる。古来本社は、近郊の人々の尊崇厚く、徳川家康よりは十五石(一町五段一畝十五歩)の寄進を受け(幕末まで)、又、三州吉田城主牧野大学源豊経よりは宝永5年4月9日、現地御遷座の時、作事奉行土肥孫兵衛をして武運長久、息災延命の祈願とともに石燈籠一基を奉納せらる。関所役人も諏訪信仰厚く、神輿渡御の際は関守を始め面番を張って奉迎し、お供の者も此の日だけは自由に立ち入りを許され、参勤交代の諸大名も祭の時は迂回したり、社前通過の時は、お篭から下りて会釈せられたとのことである。祭典の奉納花火は、明和より数十年前から伝わっているもので、遠州十大名物の第一位となっていて現在も中々盛大に行なわれるので、NHK、其の他遠来の客が多くなっている。明治元年10月1日、明治天皇御東行の時諏訪神社拝殿(今の八所神社)は内侍所(賢所)の奉安所となった。 明治6年3月 村社、明治16年6月12日 郷社、明治40年1月12日 神饌幤帛供進神社に指定 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
諏訪神社 鎮座地 新居町新居1379番地 御祭神 建御名方命外 十三柱 例祭日 7月27日 神事手筒花火 由緒 当社は景行天皇19年(約1900年前)の創立と伝えられる古社である。当初は新居宿の総氏神猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉斎し、浜辺に鎮座していたが、数度の天災により宝永五年(1708)現在地に遷座となる。 現神社名は井口嘉末なる者が信州より移り住み、天正年間(1590年頃)諏訪大明神の御分霊を合祀したことから、いつしか諏訪神社と称するようになった。 社頭掲示板 |
諏訪神社 景行天皇19年(745年)に創立。往古は猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉齋した。ところが1590年、山本勘助の重臣井口嘉末なる者が当地に在住し、諏訪大明神を勧請し猪鼻湖神社に合祀した。何時ともなく諏訪神社と称するようになった。徳川歴代将軍の信仰厚く十五石の寄進を受けた。例祭時の奉納手筒煙火は1734年頃より始まり現在も盛大に行われている。 静岡県神社庁 |
諏訪神社 祭神 健御名方命 合祭 伊勢両宮大神 杵築神 宗像三前大神 鹿島神 香取神 永正、元禄両度の海肅のため、屡々遷座せしを以て、奮記古文書等散佚し、今創立以来の沿革詳ならずといヘども。古来延喜式内社猪鼻湖神社なりといひ、安永、寛政の棟札亦社名を猪鼻湖とし、東海道名所図会所引振裾記に、 「濱名郡に猪鼻湖神社あり、社号によつて考ふるに、此神は水うみの岩の上に鎮座と見えたり、今きくに、八王子社、もと浜辺の岡の上に有りしを、宝永4年所うつりの時、諏訪の社を今の所に移すといへり、然れば八王子もし猪鼻湖の神にあらすや、但し又諏訪の事にてもあらずや、世の中うつりかはれば、古き名をうしなひ、あたらしき名を呼事まゝ多し云々」 と見えたり、然れども、特選神名牒には、 「猪鼻湖神社、所在下尾奈村(猪鼻湖々辺字瀬戸淵)今按、一説、同郡(浜名)新居宿諏訪神社なりと云へど、明証あるにあらす、下尾奈の方に、迫戸明神と云ひ、社地も猪鼻岩の湖邊にあるにて、社號もいと明らかなれば、之に従へり、」 とあり、朱印十五石、明治6年3月郷社に列す、是より先明治4年8月、境内社地鎮神社を合併す。 社殿は本殿、雨覆、拝殿、其他神輿殿等を具備し、境内は394坪(官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |