神明宮
しんめいぐう 所在地 社名















   【延喜式神名帳】弥和山神社 遠江国 浜名郡鎮座

   【現社名】神明宮
   【住所】静岡県浜松市北区三ケ日町只木
       北緯34度49分35秒,東経137度34分21秒
   【祭神】天照皇大御神 豊受大神
       『文和風土記』『神社覈録』「事代主命」
       『度会氏神名帳考証』『特選神名牒』『大日本史神祇志』「大物主神」

   【例祭】10月18日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】崇峻天皇元年所祭事代主命
       元和6年(1620)3月5日造営
       明治12年9月10日村社

   【関係氏族】三輪(美和・神)氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「神明宮」と称していた
   【社殿】神明造銅板葺
       

   【境内社】八幡宮・愛宕神社・下諏訪神社・御鍬大神宮
        八柱神社・浅間神社・金刀比羅神社・稲荷神社・津島神社・天満宮
        西之宮・山神社・二之宮


尾根の上の神社。三ヶ日原人の発掘場所近くに鎮座する。
その前身は上古期浜名湖周辺に蔓延したと考えられる大田々根子命の子孫と伝える美和(神 三輪)氏族の奉齋にかかる式内彌和山神社。
平安期朱雀天皇天慶3年(940)八月にこの地に伊勢皇大神宮領浜名神戸が成立し、逐次同神戸内外に新しく御薗御厨が成立した。
当社の所在地にも但木(タダキ)御薗の成立を見た。この時旧来の祭神であった大物主命から天照皇大神を奉齋したと推定される。
その時期は鎌倉時代初期天福元(1233)年かと推察される。
弥和山神社の比定に異説もあり、湖西市新居町橋本説などがあった。


神明宮経略

抑も当神明宮の濫觴は上古期浜名湖周辺に定着繁巣した三輪(美和・神)氏族の奉斎にかかる式内弥和山神社に当たるものにて、平安中期の天慶3(940)年伊勢神宮神領神戸が五券寄進され、その内外に御薗御厨が成立するにおよび、当神社の所在地にも但木御薗の成立を見たのであり、それに及んで旧来の祭神大物主命の霊に代るに天照皇大神を奉斎したと考えられます。その時期は鎌倉時代初期天福元(1233)年かと推察されます。
 明治維新まで摂社として西ノ宮、二ノ宮の2社のみが存したことは、式内社時代の旧態を良く物語っており、天福元年但木御薗記銘の懸仏の残されていることは神明宮奉斎の時期を示しています。
次いで室町時代の当社の姿は貞治4年(1365)大江末光奉納にかかる掛け仏二体によって覗うべく、近世江戸時代初期以来明治まで十数度の神殿修造葺上あり、現存棟札の最古のものとしては、元和6年(1620)3月5日当時住民の代表左近右衛門真次、源右衛門秀正、源兵衛秀勝以下惣村人等により上葺が行われたときのものであります。そして明治維新におよび、明治12年9月10日村社に列格奉斎されましたが、今次大戦の結果昭和20年村社の格を廃されました。
現在の本殿は、昭和34年9月伊勢湾台風の災禍により倒壊したものを氏子総代区長以下氏子一同鋭意再興に当たり成立したものであります。
昭和50年10月竣工の拝殿および付属する祝詞殿・渡殿は、伊勢神宮の式年遷宮による古材御下渡しの恩典に浴し、これが□領交渉の往来など建設委員長以下氏子一同の血の滲むような努力の結晶と、更には当区を郷とする300余名にのぼる元氏子の寄進に与かる力大である故を後世に永く識らせるものであります。かくして茲に、当区にとって千載一遇の盛事を醸成したと言えるでしょう。
昭和50年10月 識

社頭掲示板



彌和山神社

彌和山は美和夜萬と訓べし、和名鈔、(郷名部)大神、〇祭神事代主命、(風土記)〇橋本村に在す、今敷智郡に属す、(式社考)例祭 月 日〇惣國風土記四十三残欠云、遠江國濱名郡彌和山神社、圭田五十束、崇峻天皇元年、所祭事代主命也、
社領
当代御朱印高一石

神社覈録



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