内陣は中央で区画され、八幡宮と賀茂神社の神体を別々に鎭座してある。 伝承では、加茂神社は元は入野本村の賀茂屋敷(加茂屋敷)に、八幡宮は早咲の八幡原にそれぞれ鎮座したが、両社は1つになり入野松原に移ったという。 |
賀茂神社 創立年代詳ならず、延喜の制式の小社に列し、当国廿一座の一にして社領一石七斗二升を有し、古より当村の産土神たり、明治5年郷社に列す。 土佐国式社考に賀茂神社有入野村、與八幡同字、南賀茂、北八幡也、旧両社各在本村不知何時徒併干此、旧事紀曰、事代主神孫鴨王、又曰大鴨積命、磯城瑞籬朝御世、賜賀茂君姓、姓氏録云、大賀茂都美命奉斎賀茂神社、重遠謂、当社本縁当與殖田神社條並考、 とあり、然れども祭神につき異説あり、即ち神祇志料は味鋤高日子根神を祭るとせり、神社覈録は祭神不詳にして入野村松原八幡宮相澱に在すとなす、共に掲げて後考に備ふ。 本殿、幣殿、拝殿、神庫等の諸建物を備へ境内地二千八百七十四坪(官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |
安政地震の碑 嘉永七甲寅の歳十一月四日昼微々の振動有潮海に流れ溢る土俗是を名て鈴浪と云ふ是則海嘯の兆也其翌五日朝土俗海嘯に望に満眼の海色洋ヽとして浪静也欣然として家に帰る平素の業を事とす時に申剋に至て忽大震動瓦屋茅屋共崩家と成満に眼に全家なし氛埃濛々として暗西東人倶に後先を争ふて山頭に登山上より両川を窺見るに西牡蛎瀬川東吹上川を漲り潮正溢る是則海嘯也最潮頭緩ゝとして進第二第三相追至第四潮勢最猛大にして實に膽を冷す家の漂流する事数を覺す通計に海潮七度進退す初夜に至て潮全く退く園は沙漠と成田畛更に海と成る當時震動すること劇く曾聞寶永四丁亥年十月四日も同然今に至て一百四十八年今此石此邑浦の衆人労を施して是を牡蛎瀬川の邉より採て此記を乞来是を後人に告かためならん鈴浪果して海嘯 入野の兆なり向来百有四餘年の後此言を村若連中知るへき也 野並晴識浦安政四年丁巳六月朔 社頭掲石碑 |