「たかちにますじんじゃ」と読むものと思われる。 当社のやゝ西方500m余り、平田川の右岸にある曾我山古墳の丘は、古墳中期の前方後円墳で(現在は消滅している)、波多国造の墓であると言われている。当社は波多國造主自ら守り神として祭祠したと思われる。 境内に祭祀遺跡があり、社殿前方及び背後から平安期の土師器・須恵器・甕が出土している。 |
高知座神社 由緒史碑文 この社の創祀鎮坐については土佐古代史式内社考証及国造本記高知県の考古学神社史料により皇紀十代崇神天皇波多国造主天韓襲命の頃と云はれる今の幡多の守護神として奉祀せると云う神道考古学の研究では彌生初期当地方の原始水田稲つくり集落の始まる頃であり境内よりすでに多くの石器須恵器土師器を枚集しているいづれも大和朝より平安初代に至る年代を物語る今日姿を失った曾我山古墳の主は波多国造主とも考証されている当社と深いつながりを有している千九十余年の前藤原の時平は勅命により延喜式神名帳を選定して土佐の二十一社を定め幡多三社を選んでいる入野加茂神社下ノ加江伊豆田神社この社を示している奈良朝后期より国司領主の崇敬厚く社の修復宝物の献奉など文献資料示されている宝永3年谷泰山重遠は土佐式内社考を刊行している土佐幽考及和名抄光仁天皇宝亀9年に幡多五郷在り枚田郷戸内村に高知坐大明神有高持の者の社也都味歯八重事代主神は大和国高市の社又波多神社と同神也と云う幡多地方の最古の社と云う現在の本殿下には磐坐有土古の神体と云はれている本殿は明治5年11月江戸中期の桃山式を残すとして昭和30年2月県の有形文化財である昭和26・7年神社の合併の議有により神社本庁の承認により曽我神社外7社をこの社の境内神社としている又昭和21年より国家神道の中止宗教法人法の施行により神社法人となり前宮司篠田善吉よい現任宮司となりているこの神奈備の森が古代を語る国造主の遺跡であることもすでに土佐古代史により考証されている今后国の重要文化財指定を念ずると共に前宮司の残せし功績を示針として益々神明奉仕に保存管理を期すものである現在土佐の神道考古学の上から論証されている上古の社は高知市一宮土佐神社 朝倉神社 南国市朝峯神社が上古の神奈備森と云はれている昭和30年初より念願の石文を誌す也、幡多五郷は現在の入野郷大方町不破郷中村市鯨野郷土佐清水市山田郷今の山奈を呼んでいる、土佐古代史考古学の研究では波多国造主と都佐国造主の二つが大和朝13代成務天皇の頃一つとなると云う小立足尼と呼んでいる延喜式内社の鎮座せる近くには古代の遺跡古墳を有していることを語るべき也この社の北西方には聖武天皇神亀元年開山と云う三十九番延光寺在り南東方には治承初年と云う平田太郎俊遠の二重山城跡有又西方に天文初年開山と云う一条初代房家2代房冬公土佐一条国司の墓地藤林寺在り又年代未詳の兼松城布本城跡等在り北方に彌生初期と云う高岡山古墳を有すこの社との深い関係有りと云う土佐国年記事略古城略史寺院誌歴史年表を参考とするこの社の古式大祭日は旧9月22日とされている、昭和20年1月内務省より県社の内示有るも神道指令にて中止される天文初代より宮林藤原の臣幡多郡和田村住の神主の奉仕により大正初期迄14代と有しが松平藤佐神職辞任により大正10年10月より前篠田善吉宮司就任となる旧幡多郡奥屋内村より現代に至る篠田源八郎藤原朝臣重里の子孫也温故知新の言葉がある古きを尋ねて現代に照せと解する平田郷土に生れ育つ我々は遠い祖先の歩み行いしことがらを思考し今日あるを静かに省みる時自然の理を神々の恩頼加護を受けているを痛感するものである昭和40年5月宮司就任より神の命示として朝夕に奉仕し古典に則り神道国学本義の理念を有しつゝ今后共古代史郷土史研究に歩む者である。 社頭石碑 |
高知座神社 高知坐神社修復記念碑 神社の創立は土佐古代史考古学神社史料により皇紀10代崇神天皇波多国造朝といわれる平安時代初期藤原時平の勅進した延喜式神名帖にのる土佐二十一坐幡多三社の一であり国司領主の崇敬厚くいくたびかの社殿の造営あり元久初年より天文13年4月土佐一条三代房基氏より現本殿明和5年11月宿毛領主山内源蔵橘氏篤の修復により江戸中期210余年を経ている昭和30年2月15日県有形文化財指定を受く明治42年11月及昭和12年11月旧平田村氏子中前宮司篠田善吉等により修理せるも年月の老朽白蟻の損害多くして県市の修理費広く町内氏子有志の募金により総工費488万2000余円により昭和52年10月23日本殿幣殿を修復したものである平田郷土の歴史の森であり幡多地方の古代を語る古社として永く石碑に誌し永遠に守り伝えるものである。 昭和53年4月吉日 宮司 篠田俊昭誌す 社頭石碑 |
高知座神社 高知坐神社本殿 平田町戸内にある高知坐神社は延喜7年(907)に撰された延喜式神名帳にのっている土佐21社、幡多では3社の中の一つで、由緒ある神社である。本殿は桁行二間、りょう間二間の三間社流れ造りで、内陣と外陣に分かれているが、本殿は三間四面の覆屋の中に納められ、外部からはガラス越しに見られるだけで内部を詳細に見ることはできない。 現在の本殿は、棟札によると昭和5年(1968)、宿毛の七代領主・山内源蔵氏篤と嫡男・氏益が武運長久子孫繁昌を祈って重修(重ねて修理する)したものである。本殿の象鼻、蟇股などの彫刻は江戸初期の制作と思われ、豪華絢爛を極めた桃山時代の彫刻のおもかげを今に残している。 昭和30年高知県保護有形文化財に指定。 宿毛市の文化財 http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/cultural/p002.html |
高知坐神社 創立年代詳ならず、延喜の制式の小社に列し、当國廿一座の一たり、土佐國式社考に高知座神社在牧田郷戸内村、本神体青黒玉石、盛以円筥、重貯以箱摂神体青石臓於杉箱、共二座、近里摂社多、俗作高持者音之訛也、度会氏曰、旧事紀云、都味歯八重事代主神座大和國高市郡高市社、蓋高知坐神事代圭命歟、高知高市相通、譬如摂津筑前住吉同神、駿河甲斐淺間同神之類、旧事紀又云、事代主神化為八尋熊鰐、通三島溝杭女活玉依姫、国造国人長我孫葛城事代主命八世孫忌寸宿禰苗裔也、神名帳云、大和國高市郡渡多神社、亦與此同神歟」とあり、主神の御神体は青黒玉石にして圓筥中に奉安し、又相殿左神の御神体は青石にして杉箱中に藏め奉れり、右神御神体は木橡に座せりと神社記に見ゆ。本社祭神につき、神社覈録は未詳とせり、記して参考に備ふ。 本殿、廊殿、拝殿、鞘殿等の諸建物を備へ就中本殿は土佐國宰山内源藏氏篤の寄附たり、境内地は二千五百八十坪(官有地第一種)にして村の東端に位し氏子部落を距る丁余とす、櫟、杉等の雑木繁茂し、大なるは周径二丈余に及び、昼猶暗き有様にして風致に富み、社地たるに適せり、宝物は白焼鉢(天文8年一条房家寄附)木造獅子、鈴(慶長7年宮村内藏祐寄進)刀三口、(備前祐定、同直行の作及無銘のもの)等とす。 明治神社誌料 |