天石門別安国玉主天神社
あまのいわとわけやすくにたまぬしてんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】天石門別安国玉主天神社 土佐国 吾川郡鎮座

   【現社名】天石門別安国玉主天神社
   【住所】高知県高岡郡越知町黒瀬1566
       北緯33度35分25秒、東経133度18分15秒
   【祭神】天手力男命
   【例祭】8月4日 夏祭 11月8日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       貞観12年(870)3月5日従五位下
       元慶3年(879)9月17日従五位下
       明治5年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

明治3年、神社改正に際して、詮議上、突然黒瀬村の同名神社を本宮とし、神谷の社は式社を除き新宮と唱へ、造営等中止の旨藩府より下知あり。


天石門別安国玉主天神社

高知県高岡郡越知町黒瀬。旧郷社。『延喜式』に天石門別安国玉主天神社と記載されている。天手力男命を祀る。創祀年代は不詳であるが、延喜の制小社に列せられ、当地の産土神として崇敬されている。例祭8月12日、11月8日。

神社辞典



天石門別安國玉主天神社

此神は太玉命の子高皇産霊神の孫なり、土佐郡朝倉村縣社朝倉神社祭神、天津羽々神の父とす、創立年代詳ならず、延喜の制式の小社に列し、黒瀬村の内宮ヶ奈路部落の産土神なり、神社覈録并神祇志料、土佐國式社考、神名帳考証等の諸書を参酌するに、式の天石門別安国玉主天神社の所在を神谷村となして、本社即ち明治村大宇黒瀬にある神社を以て式社となさず、(本郡神谷村大字神谷村字杉ノハナに村社格にして同社名のものあり、社記につき見るに、式内の天石門別安國玉主天神社なりと云ひ、或は三代實録、所載の大谷神なりとも云へり)。
神社覈録には「天石門別安國玉主天神社、天石門別は阿米乃伊波止和氣、安国玉主は夜須久爾多麻毛利天神は、安米能加美と訓べし、〇祭神明かなり、〇神谷村に在す、(式社考神社記)とあり。」又(神砥志料巻19)吾川郡一座小、天石門別安國王主天神社、今神谷村神谷山嶺に在り、(土佐国式社考神名帳考証)とあり。
右両書に神谷村となせるは、土佐國式社考、并神名帳考証に、此社は神谷坤隅之山嶺に在りとあると、又現に神谷村なる村名あるとに依り式の天石門別安國玉主天神社を神谷村と断定せるにて、別に地理等につき考査せるものにあらざるや明なり、即ち
(神名帳考証巻8)「天石門別安國玉主天神社、在吾川郡神谷坤隅之山嶺云々」
とあるが故に神谷村とせるなり、(南路誌)を観るに「神谷村よりは黒瀬村は川上也」とあり、故に黒瀬村が神谷村よりは神谷山嶺に近きや明にして式社考、又は神名帳考証に記せる神社は、黒瀬村の神社なりと想像せらる、故に南路志も黒瀬村の其社を以て式社となし又明治4年縣庁に於ての取調書にも如か云へり。
明治4年未正月社寺改正決議書云、「天岩門別安國玉主天神社、但延喜式神名帳二所載當國吾川郡式社、右者式社考ニ神ノ谷村卜相定有之候得共、此度深詮議方仕候所、式社考之趣全ク相違ニテ右神社者役場社牒二所謂黒瀬村宮ノ奈路鎮座天岩戸大明神卜和見候、神社ニ有之不而己、右村里ニ相傳候話説等頗ル著然タル事ニテ、且又神徳之高大ナル實ニ筆紙ニモ難尽儀ニ御座候、然ルニ神谷村卜相定候故ハ、根元元禄年中波川村神職壱岐卜申者、神ノ谷杉ノ鼻ト申地ニオイテ、右神名有之棟札ヲ拾ヒ得候ヨリ則神母林卜申林中ニ有之小祠ヲトラへ押シテ右神社ト申触候事ニテ、元来其棟札卜申ハ黒瀬村神社大鴻水之節、宮殿破壊其時流失致候分、自然右之地へ漂著致候モノ歟、将又神職壱岐ト申者ノ奸計ヨリ出候儀ニテモ可有之哉、兎ニ角神谷村之儀ハ断然全クノ偽社ニ御座候云々トアリテ、時ノ縣ノ社寺改正係ノ指令ニ式社吾川郡黒瀬村、天岩門別安國玉主天神社、但旧來紳谷村ニ有之神社ヲ以右式社ニ相当候所此度御詮議ノ上、右村地名宮ノ奈路ニ座ス神社ヲ同式社ニ被仰付候、右之通改正被仰付候、明治4年辛未2月社寺改正係」
とあり、南路志の説く所も殆んど同じけれぱ、茲に之を略す、録に記す神谷村字杉ノハナにある村社天石門別安國玉主天神社境内に、神母神社あり、又神谷村字ノクボに無格社神母神社あり、いずれも祭神は倉稻魂神なり、本社御神体は神体記に拠るに木橡の由、明治5年郷社に列す。
本殿、幣殿、拝殿、鞘屋、通夜殿等の諸建物を有し境内地五百二十八坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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