もと神母林の巨巌の下にあり、神名も知られていなかったが、元禄5年巌穴より「天野岩戸分安国玉之天神社 天文九年庚子霜月八日 勝賀瀬越後造立」と記された棟札が発見され、藩庁に届け出、新たに社を造立したという。 明治3年、神社改正に際して、詮議上、突然黒瀬村の同名神社を本宮とし、当社は式社を除き新宮と唱へ、造営等中止の旨藩府より下知あり。村社に列格、郷社貴船神社と合祀し、大正8年郷社となつた。 この理由としては上記の棟札は黒瀬村の社の棟札が「流れ着いた」ものとされた。 |
天石門別安国玉主天神社の棟札 天文9(1540)年、同社の上棟についての棟札。縦40.0p、幅8.5p、厚さ1.2p。 県内を見廻しても、室町時代の棟札はそれほど数多くは残っていません。 平安時代、康保4(967)年施行された「延喜式」に土佐国の官社は二十一座(社)とあり、これが「延喜式内社」と言われる神社であって、吾川郡では一社であります。 天(あめの)石(いわ)門別(とわけ)安国(やすくに)主天(ぬしてん)神社(じんじゃ)がその神であり、地方では「トアケサマ」と発音略称がされてきました。 式内社も時代の経過につれて、中には、零落する神社もあったようですが、江戸時代中期谷秦山は藩主の意を受けて土佐国内を巡回し、各神社を検証して式内社を確認しています。(土佐国式社考、宝永3(1706)年)。この時、神谷村の神社を式内社に決定しています。式内社ゆえ、古い宝物を所蔵するように考えられますが、古い社は洪水にやられ、多くの宝物も流失したと思われます。 山形の上端。その山形の方が左右長さを異にしています。また下部の幅が上部の幅よりもやや小であります。檜材で作り、棟札の両面には槍鉋(やりがんな)で製作したための凹凸が残っています。棟札の文は墨書で書かれ、山形の下から棟札中央下部まで一行で次の如く書かれています。 「上棟 天野岩戸分安國玉之天神社宮信心檀邦息災延命勝賀瀬越後造立之」 棟札中央部に縦に墨書された右の文字の右側には「持國天 天下泰平國土安穏」と墨書され、左側には「増長天 所願成就皆令満」とあります。さらに左側のその文の下には、「下分勝賀瀬村神主衛門太夫」とあります。なお、山形肩部の両端に「封」の字が左右に存します。 以上が棟札表面の墨書の文ですが、裏面にも墨書の文があります。二行にわたって、「御祭九月十八日也 干時天文九歳子成霜月八日」と記しています。 ちなみに、棟札の山形の両側下の「封」の字は、室町時代から元和頃までの棟札によくみられるもので、短冊形の棟札の場合は四隅に「封」の文字を書く事が多いです。これは室町時代になって、棟札が祈祷札としての性格を持つようになったことから書かれるようになったのであります。 いの町HP |