朝倉神社
あさくらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】朝倉神社 土佐国 土佐郡鎮座

   【現社名】朝倉神社
   【住所】高知県高知市朝倉丙2100-イ
       北緯33度33分13秒、東経133度28分54秒
   【祭神】天津羽羽神 天豊財重日足姫天皇
   【例祭】11月10日 例祭
   【社格】旧県社 土佐国二宮
   【由緒】勧請創始年代など不詳
       明暦3年(1657)造営
       明治5年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】神体山としての赤鬼山
   【祭祀】江戸時代は「二の宮」「高賀茂大明神」と称していた
   【公式HP】 朝倉神社
   【社殿】本殿切妻造柿葺(国指定重要文化財)
       幣殿・拝殿・絵馬殿・神饌所・手洗所

   【境内社】荒倉神社・倉稲神社・倉稲神社・忠魂社・八坂神社

御祭神の天津羽々神はこの地の開拓神であり、天豊財重日足姫天皇即ち斎明天皇はその後年この地の朝倉宮に幸せられた縁により、後に合祀された。「高賀茂大明神」「橘の広庭の宮」とも呼ばれていた。中世以降も武家の崇敬が篤く、山内氏歴代藩主も社領寄進や造営につとめた。
斎明天皇朝倉宮については筑前説と土佐説とがある、土佐説ではこの地を朝倉宮とする。
当地の伝説では、朝倉神社後背の赤鬼山(あかぎやま)の木を切って山麓に営んだのが、その朝倉宮であるとしている。そして天皇の死後、赤鬼山の神である天津羽羽神を祀る社殿に天皇の霊を合祀したと伝える。


朝倉神社

重要文化財
延喜式内社朝倉神社略由緒
高知市朝倉 土讃線朝倉駅西200m北側
電話44一1360番
延喜式内社 重要文化財
朝倉神社のあらまし
朝倉神社は天津羽羽神と天豊財重日足姫天皇を祭り福寿延命ノ神、文化ノ神治政ノ神であります。
上古社の御山は開発ノ神である天津羽羽神のヒモロギ(神体山)として御山全体を崇教の対象として畏敬せられ、やがて文化に伴い朝日さす南東の麓より拝むベく現在の所に社殿を建てられたので此の赤鬼山こそ古代宗教の名残りで県指定の史跡地で西南隅麓の古墳と共にゆるがせに出来ない土地柄であります。天津羽羽神は古代より此処に鎮座まします国中稀な古社で、後の世の遷座とか御分神とかではなく、極めて深い由緒をもち土佐ノ国風土記や、日本書紀等の古典にも載せられ、又延喜年間の神名帳にも国幣として登載せられた所諭式社であります。
斉明天皇7年朝倉宮に行幸せられ仮の御殿を丸木で造られたので木ノ丸殿と申されました。御子天智天皇は「朝倉や木ノ丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くはたが子ぞ」と御詠みになられておられます。そしてのち天智天皇の勅語により斉明天皇を朝倉ノ宮に合せ祀られたとの事であります。又土佐物語には朝倉神社ノ事と題し一巻を面白く物語っております。
当神社はもと勅願所で当時使用せられた勅使石は今に残って居りますし、又国の祈願所で正一位高加茂大明神橘の広庭ノ宮とも申しました。又武家の崇敬もあつく現在の社殿は二代忠義公が明暦4年に傾いたのを興されたものであります。建築は室町時代の手法を含む江戸初期の建物で、日本古来の様式に唐天竺の様式を加味して絶頂の技をつくし極彩色のところ等は日光東照宮の例でその優美さは「馬には目かくしをしなければ・まばゆさに驚き通れなかった」と伝えられ地方には珍らしい模範的建物であります。昭和24年2月18日国宝に指定され同25年8月29日重要文化財に指定されました。
先賢谷秦山先生は式社考で深く考証せられ、又藤原雅澄先生は「天津羽羽神のちはひと千世はへむのむみ民等の心足らひに」と其の神徳を高く尊く詠まれております。
夏祭りは7月24日で当日参道に設けられる明治初期画匠巨作の台提灯と祭神女神にちなむ活花奉納演芸等は夏の夜の美しい饗応であります。
例祭は11月10日で当日神幸所で奉納せられる神角力、棒振踊、神踊、南門殿踊等は社伝の行事で筮ノ舞や浦安ノ舞と交々年々奉納されます。
又祭日に頒布せられる「破魔矢」は御祭神の天津羽羽神と天豊財重日足姫神の神徳にちなむ悪魔退散、福寿延命の御守りとして有名であります。

社頭掲示板



朝倉神社

朝倉神社は天津羽羽神と天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)を祀り、福寿延命の神、文化の神治政の神であります。
上古、社の御山は開発の神である天津羽羽神のヒモロギ(神体山)として、御山全体を崇教の対象として畏敬し、やがて文化に伴い朝日指す南東の麓より拝むべく、現在の所に社殿を建てられたので此の赤鬼山こそ、古代崇教の名残であり、県指定の史跡地で西南隅麓の古墳(朝倉古墳)と共になおざりに出来ない土地柄にあります。
天津羽羽神は古代より此処に鎮座するという国内でも稀な古社であり、後の世の遷座や分霊などではなく、極めて深い由緒を持ち、『土佐国風土記』や『日本書紀』などの古典にも載せられ、また『延喜式』神名帳にも国幣として登載された式内社であります。
斉明天皇7年(661)、朝倉宮に行幸され、仮の御殿を丸木で造られたので「木の丸殿」と申されました。御子の天智天皇は「朝倉や 木の丸殿に 我が居れば 名乗りをしつつ 行くはたが子ぞ」と詠まれております。そして、後に天智天皇の勅語によって斉明天皇を朝倉宮(朝倉神社を指す)に併せ祀られたとのことであります。
また、『土佐物語』には「朝倉神社の事」と題して一巻を面白く物語っております。当神社はもとは勅願所であり、当時使用された勅使石は今に残っておりますし、また、国の祈願所で正一位の高加茂大明神「橘の広庭」とも申しました。
また、武家の崇敬も篤く、現在の社殿は土佐藩二代藩主・山内忠義公が明暦4年に造営したものであります。建築は室町時代の手法を含む江戸初期の建物であり、日本古来の様式に唐天竺(中国・インド)の様式を加味して絶頂の技を尽くし、極彩色のところなどでは日光東照宮の例で、その優美さは「馬には目隠しをしなければ、その眩さゆえに驚き、通れなかった」と伝えられ、地方には珍しい模範的建物となっています。なお、昭和24年2月18日に国宝に指定され、同25年8月29日に重要文化財に指定されました。
先賢 谷泰山先生(江戸中期の儒者)は社式考で深く公証され、また、藤原雅澄先生(江戸中期の国学者)は「天津羽羽神 のちはひと千世は へむのむみ 民等の心 足らひに」とその神徳を高く尊く詠まれております。

由緒書



朝倉神社本殿

朝倉神社はJR朝倉駅から西北方約1km、赤鬼山の南東麓にある。「土佐国風土記」(風土記逸文)にもある古社で、延喜式内社でもある。本殿の創建と沿革は明らかではないが、現在のものは2代藩主山内忠義が1657(明暦3)年に再建したものである。工事は同年2月16日に開始して同年8月に完工している。本殿は身舎[しんしゃ]三間社の切妻造りで、唐破風の付いた一間の向拝を付けた珍しい造りで、棟には3個の置千木[おきちぎ]と5本の勝男木[かつおぎ]をのせている。身舎は桁行三間、梁間二間で、三方に縁を廻し正面一間に木階五級を組み、登り勾欄が付いている。柱はすべて円柱で、内部は中央の柱通りで内・外陣に分かれ、天井は通り肘木で三間に仕切られ天人舞楽の図を描いてある。本殿の再建は記録のごとく明暦3年としても、建築の様式と手法は再建の年代よりも古いといわれ、その原因として土佐が遠在しているため、中央の文化が早く伝わってこなかったのではないかと考えられている。建築の技法はすべてにわたってよく整い、加味された彫刻もまた堅実で古調を帯びしかも過剰ではない。全体として秀麗な建築といえよう。

高知市HP



朝倉神社

朝倉神社(あさくらじんしや)
高知市朝倉丙。旧県社。天石門別神の子天津羽羽神・天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)を祀る。地方の古社で「此朝倉の名は前なる葛木と同じく大和国より出て、かの高賀茂神(土佐神社祭神)を放逐の時随従へるに依て、共名の当国に遺れる」(『神写覈録』)ものという。
延喜の制小社に列し、土佐の二の宮と称せられ、朝倉郷の総鎮守として上下に崇敬された。ふるくより朝倉宮・朝倉大明神といい、神社の鎮まる赤鬼山は神体山として畏敬せられ、西南麓の古墳とともに県指定の史跡地である。江戸時代には藩主山内家の崇放篤く二石の社領を寄進、現在の社殿は明暦3年(1657)二代忠義の再興したものである。旧国宝・現重文に指定される。祭神は初め天津羽羽神一柱であったが、斉明天皇の行宮とせられた朝倉宮にちなみ同天皇を奉祀するにいたったという。例祭日は11月10日で当日神角力・棒踊・神踊など社伝の行事が奉納される。

神社辞典



朝倉神社

創立の年代詳ならずと雖も、延喜の制式内の小社に列し、當國廿一座の一たり、神名帳考証巻八に 「朝倉神社今在朝倉村天津羽々神、日本紀云、土佐國風土記云、土左郡有朝倉郷、々中有社、神名天津羽々神、天石帆別命、今天石門別神子也、姓氏録云、国栖、出自石穂押別神也、大和国高市郡天津石門別神社、吉野大國栖御魂神社、按風土記石穂別者石穂押別也、大和國吉野郡波宝神社、羽々與波宝音通、遠江国佐者野郡己等乃麻知神社、阿波々神社、大系図本系帳云、玉主命許登能遅媛命、按阿波々者天津羽々乎、玉主安國玉主天神也」
とあり、又朝倉宮は日本紀に、
「斉明天皇7年5月乙未朔癸卯、天皇遷居干朝倉橘広庭宮、是時散除朝倉社木而作此宮之故、神忿壊殿、亦見中、由是大含人及諸近侍病死者衆、秋7月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮8月甲子朔、皇太子奉從天皇喪、還至磐瀬宮、是夕於朝倉山上有鬼、著大笠臨視喪儀、衆皆嗟怖」とあれば、高知市の西南一里弱、朝倉村字赤鬼山に鎮座せり、社記を按ずるに當社は古来此地方著名の大社にして朝倉庄の総鎮守とす、又当國の二宮たり、始めは天津羽々神のみを奉祀せしが齋明天皇の7年天皇當村橘廣庭の宮(即ち木丸殿)に遷幸したまひ、追て同年7月1終に崩御せられしを以て、後年皇霊を當社に合祀し、(日本鹿子巻第十三日朝倉明神土州吾川主(木丸殿)天智天皇御宇御建立)中古には勅使の参向せらしこと屡々なりと云ふ、(依て同天皇の御陵は字鵜来巣山に在りと謂ふ説あり)然るに齋明天皇の崩御の地は、土佐に非ずして筑前に在り、扶桑略記に遷居筑紫朝倉橘廣庭宮云々と記せるを以て説とす可し、且天皇の當時親征を思ひ立たせ給ひたる理由及地勢上より考ふるも、筑前を以て其の宮趾となすべしと論すべきなりとも云ふ、茲には其信爲を辮ずるには及ばす、姑く社記の傅ふる儘を記載し置くのみ。
本社は天正年間頃迄は社領数町、社人も多数なりしが、山内氏入國と共に社領は一先づ没収せられしも、爾来亦山内氏(国主)の崇敬篤く、社領高二石を給ひ、又明暦3年山内忠義の継絶興廃の挙あり、社地は國道(宇和島街道)の北側に在り、賽路二丁許り之を馬場と称し、華居を入れば正面に本殿、幣殿、拝殿あり、(山内忠義再興当時の建物とす)南面して鎮座し、其の右方に絵馬殿、紳饌所、通夜殿、社務所、倉稲神社、左方に荒倉神社あり、境内一千八百坪(官有地第一種)とす、明暦3年8月山内忠義寄附の石燈籠一対、社前に在り、土地幽邃自から神威の高きを表せり、又明治42年8月中内務省指令甲第70號を以て土地林反別七町八反九歩を編入せらる、宝物は鎧一領。(兜なし革製紺糸縅作者不詳山内土佐守忠義大坂陣に着領明暦年間解願のため献納とあり)具足一領、(鉄製胴丸緋縅鍬形付前立金色白金作者不詳山内忠義献納)獅子狛犬一対(上焼高さ一尺一寸二分据口一尺小戸焼初代正伯作)にして神体は御鏡なりと云ふ、(社記並神体記)又社有財産は田畑合せ約二町、山林三町余、現金九百余圓を有せり。

明治神社誌料



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