郡頭神社
こおりずじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】郡頭神社 土佐国 土佐郡鎮座

   【現社名】郡頭神社
   【住所】高知県高知市鴨部上町5
       北緯33度33分6秒、東経133度29分58秒
   【祭神】大国主神
   【例祭】 7月21日 夏祭 11月22日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀年代不詳
       永正元年(1504)9月10日「鴨部御社」
       永緑5年(1562)9月兵火焼失
       天正15年(1587)10月18日「鴨部六所大明神」
       宝永5年(1708)7月2日「鴨部大明神社」
       明治5年郷社
       昭和56年5月27日火災焼失

   【関係氏族】賀茂氏
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「鴨部大明神」と称していた
   【社殿】本殿コンクリ造
       幣拝・社務所・神倉

   【境内社】荒神社

鏡川の自然堤防上に賀茂氏の集落が成立し、堤防の高所に祖先神を祭る神社が建立され、鴨部祝が神社の神事を掌つたと思われる。
鴨部一帯に居住した賀茂氏・鴨部氏(賀茂氏の部民)が、祖先神として大国主命を祀ったのが当社の創祀といわれる。
ほぼ6世紀頃には原初的なものとはいえ、神社は建立されていたと思われる。


由緒

延喜式巻第十(神祗十)神名下(南海道神)土佐国廿一座のひとつである。
『続日本紀』神護景雲2年11月戌子の条に「土佐国土佐郡人神依田公名代等四十一人賜姓加茂」とあり、『新撰姓氏録』に「鴨部祝賀茂朝臣同祖大国主神後也」とあることからも加茂氏一族の当地に於ける繁栄と、大国主神を奉斎し崇敬したことがうかがわれる。
延喜式内社であった当社は、明治5年郷社に列し、昭和21年神社制度の変革により、神社本庁に所属し同年5月17日宗教法人となった。
昭和56年5月27日、御社殿及び社務所が炎上したが、御神体間近まで燃え迫った炎は自然に消え御神体は御安泰であった。更に、御神体に関する不思議な霊威はこれにとどまらず、社務所神殿に安置された御分霊もあます所なく焼け落ちた廃拠に無疵で御安泰。仮殿に遷座すべく奉仕した神職共あまりの神威の高さに慄然とした。
昭和58年より一年有半を経過した工事により、本殿、幣拝殿、社務所、神倉、境内所設備等を再建新設した。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




郡頭神社

高知市鴨部264番地鎮座
かもべの大国様
郡頭神社
郡頭神社社務所
◎御鎮座地
高知市鴨部264番地
◎御社名(こおりずじんしゃ)
郡頭神社(古保里都神社と訓じ…と『明細帳』にある)。『こほりづ』と読む。
◎御祭神
大国主神
◎由緒
延喜式巻第十〔神祗十〕神名下(南海道神)土佐国廿一座の一つである。
『続日本紀』神護景雲2年11月戊子の条に「土佐国土佐郡人神依田公名代等四十一人賜姓賀茂。」とあり、『新撰姓氏録』に「鴨部祝賀茂朝臣同祖大国主神後也」とあることからも賀茂氏一族の当地に於ける繁栄と、大国主神を奉斎し崇敬したことがうかがわれる。
延喜式内社であった当社は、明治5年郷社に列し、昭和21年神社制度の変革により、神社本庁に所属し、仝年5月17日宗教法人となった。
昭和26年5月27日、御社殿及び社務所が炎上したが、御神体間近まで燃え迫った炎は自然に消え御神体は御安泰であった。
更に、御神体に関する不思議な霊威はこれにとどまらず、社務所神殿に安置された御分霊も、あます所なく焼け落ちた廃拠に無疵で御安泰。仮殿に遷座すべく奉仕した神職共あまりの神威の高さに慄然とした。
昭和58年より一年有半を経過した工事により、本殿、幣拝殿、社務所、神庫、境内諸設備等を再建新設した。
◎大国主神さま
大国主神さまには多くのお名前があります。
それは、御神徳(御利益)が多いことを物語っています。葦原醜男(あしはらしこお)
八千文神(やちほこのかみ)・大己貴神(おおなむちのかみ)と別名でお呼びすることもあります。
大国主神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御子とも、五世孫とも六世孫ともいい、『古事記』によれば、天之冬衣神(あめのふゆぎぬのかみ)の御子で、御母は刺国大神(さすくにのおおかみ)の娘、刺国若此売(さすくにわかひめ)であるとされています。
大国主神は、国土を開拓し、天下を経営し、畜産の業を興し、医療の法を教え、種々の災をはらい、禁厭の法を定められました。そのため国造大神(くにつくりのおおかみ)とも申し上げます。
天孫降臨にあたっては、御子、事代主神(ことしろぬしのかみ)と議って国ゆづりをされ、永く幽界の事を司られるようになりました。
◎祭日
歳旦祭    1月1日
祈年祭    1月22日
夏祭     7月21日
例祭・おなばれ11月22日
甲子祭    きのえねの日
(年六回)

社頭掲示板



郡頭神社

創立年代詳ならずと雖も延喜の制式の小社に列せられ当国廿一座の一なり、古より通称鴨部六所大明神と云ふ、社号「郡頭」は奮訓「古保里都」とあり、(神社覈録)又社号につき神社覈録は左の説をなせり、(延喜式神名牒には土佐國土佐郡郡頭神社とあり)
土佐国式社考云、「郡頭当作鴨部、蓋鴨字左甲誤作君、右鳥草書以混邑草、途変郡字、部字左の誤作豆、右邑草書以混頁草、遂変頭字耳、此社在鴨部村、績日本紀曰、神護景雲2年11月戊子、土左国土佐郡人神依田、公名代等四十一人賜の姓賀茂、姓氏録曰、鴨部祀、賀茂朝臣同祖、大國主神之後也、(長谷川菅緒云、郡頭とあるは頭部にて、そを上下に写し誤りたるならん加毛倍と加美倍と言通ふと云へり」、又一説に郡部は古保豆と訓べきか、信濃国地名考に、東鑑云、郡戸荘、又思ふに、郡頭も郡戸も、古保倍と訓にや、遠江国山名郡辺神社もありと謂り、)〇蓮胤按るに、こは重遠の説の如く、鴨部なるべし、さるは大国主神の後なる賀茂朝臣、鴨部祝等此四國に繁榮せしと見えて、和名鈔に、阿波国名東郡賀茂(加毛〇式に、美馬郡鴨神社)讃岐国寒川郡鴨部、阿野郡鴨部、(加毛〇式に鴨神社)伊豫國新居郡賀茂、越智郡鴨部、当国当郡鴨部など、悉く郷名の残れるも、全く賀茂朝臣鴨部祝等の末裔の居住より称するが、起源と思はるれば也。(遠江国郡辺神社、信濃なる郡戸庄などを例にとるは迂遠ならずや)とあり、古来当鴨部村の産土神にして、社地一反二十代神田三町三反三十二代ありし由、秦氏地検牒、並神社記に見ゆ、現今は本殿、幣殿、舞殿、通夜殿、御炊殿、竈所等の諸建物完備し、境内地六百七十四坪(官有地第一種)あり、又本社は高知市を距る里許の処に鎮座す。

明治神社誌料



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