鳴無神社
おとなしじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】都佐坐神社(大) 土佐国 土佐郡鎮座

   【現社名】鳴無神社
   【住所】高知県須崎市浦ノ内東分
       北緯33度24分51秒  東経133度22分8秒
   【祭神】一言主命 級長津彦命 級長津姫命
   【例祭】8月24-25日 例大祭
   【社格】
   【由緒】雄略天皇の4年(460)11月この地に御祭神を祀
       白鳳13年(662)8月14日社殿造営
       寛文3年(1663)造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所・倉

   【境内社】

海に面して鳥居があり、海から神を迎え入れる古い形を良く残している。
伝説では、土佐に流されて浦ノ内湾に漂着した一言主命を奉斎したのが鳴無神社で、ここから祀り変える地を選ぶため一言主命が投げて落ちた大石が土佐神社境内の礫石であるとする。


由緒

当社祭神は土佐神社と同神にして(土佐神社は鳴無神社の別宮)雄略天皇22年この地に御祭神あり、土民13人御舟金剛丸と共に迎え来て、高加茂大明神と崇称し鎮祀する。
後、200余年白鳳13年8月14日地震のため当郷の地大半一度海底に沈みしため、今の地に社殿を設け和鎮す。当社は、この地方の豪族近藤、大平二氏の尊崇篤く長宗我部氏、山内氏引き続き社殿の造営等あり。非常に崇敬したと云う。現在社殿は寛文3年土佐二代藩主山内忠義公の造営せしものである。
昭和二十一年宗教法人令により神社本庁所属

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




鳴無神社

旧記によれば、この大神此の地に鎮座したのは、今より1550年余(西暦460年)の昔、雄略天皇の4年11月晦です。大神は天皇との問に諸事有って京の葛城山を出られ、船に乗って海に浮び浦ノ内南半島の太平洋岸にご上陸。海水煮き火食せられ、その立ち上る煙を見た里人が行って見ると、現人神であられたので、尊び敬って大神と御船(金剛丸)を担ぎ、山を越え玉島(現社殿地)に迎えた。そして宮殿を建て大神を奉安し、御船は社殿右脇の山に封じ、御船山として注連縄を張り、大切にしている。
重要文化財
鳴無神社
御祭神
一言主神(ひとことぬしのかみ)又の御名を味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)
鳴無神社の創建は、1550年余前(西暦460年)の古社で、現社殿は土佐二代藩主山内忠義公が1663年に再建したもの。
「本殿」は二間四面の春日造・こけら葺・極彩色内陣で、天井には天女の舞の絵(伝村上龍円筆)が描かれ、「幣殿・拝殿」は切妻造・こけら葺で、いずれも社宝である「鰐口」とともに、国の重要文化財に指定されています。
夏の大祭「志那弥(しなね)大祭」(毎年8月25日)ではお船遊びと称し、大漁旗をなびかせた漁船の海上パレードが勇壮に行われ、秋の大祭(チリヘッポ)(旧8月23日)では、神の子の結婚式が厳かに行われます。

社頭掲示板



鳴無神社

創立年代詳ならず、神社牒奥浦村東分(一ニ鳴無村)の條に「高賀茂大明神但正一位又鳴無大明神共唱右勧請來歴不相知但縁起等實永4亥年大変に流出」とあれども、又或書に「廃帝天平宝字3年庚子(月日未詳)此神像一宮より流て鳴無の社地に至る。爾後毎歳7月3日の祭礼には必神輿を船に載せて行処に至る、土俗博て御舟遊と云」(鳴無紀行鳴無古厨子裏書〇神体流て其地に至り神輿を船に載で鳴無に至る等の文鳴無紀行に拠る)とあり、又神社並国幣中社土佐神社縁起等にも同一の趣を記されたれば、本社は共古社たること知るべく、要するに國幣中社土佐神社を勧請せしものなるが如し、昔は社人15人ありて、社殿完備し又相當の社領を有せり、中世長曾我部氏及山内氏等の崇敬篤く、社殿造営神輿其他金品の寄附数々なりしと云ふ(神社牒に拠る)社記に「後藤、大平の二家領主たりしとき、世々本社を敬ひ、宮殿の美麗祭典の厳備はる、然後応仁以降兵乱に属し、或は祭典を略し或は宮殿の修覆を遷延なし、遂に大平氏亡び、天正13甲戊年より長曾我部氏の有する所となる、後ち、慶長5年庚子年8月3日長曽我部盛親神輿を再興す、今現在用うる所たり、長曽我部氏滅亡の後、國主山内一豊同9年に上葺をなす、寛文3年癸卯8月國主山内忠義所願報賽のため宮殿の結構は申すに及はず、社地馬場等迄も海中に築き出し廣大美麗を極む今現在する所なり」とあり、又神体記に「正一位高賀茂大明神但鳴無大明神共、神体□□本地十一面観音、南路志云、鳴無神社は和洲吉野藏王権現を勧請したるものならん、権現は一言主尊にて祭礼、8月23日沓形の餅を奉る儀式有、又鳴無宮祭礼も8月23日にて、今に至る迄海旅所にて沓形の餅を奉る也云々、7月3日之御祭シナ子祭と申伝、御舟へ神輿奉乗、又一宮大明神も右之通、御舟に召御出船被成、浦内青木灘にて御逢被成、夫より御船遊被成、両神御対面御神樂有之由申伝、然所何の比にや難風御逢社人数々相果、夫より御申合を以両神御出合止り申由」新勅撰集家隆卿の歌に「土佐の海に御舟うかへて遊らし都の空は雪気のとけき」とあるは、蓋此祭事を詠じたるものなるべし、明治元年高賀茂大明神、又は高賀茂大神、後に鳴無神社と改称し、5年郷社に列す。
本殿、拝殿、幣殿等の諸建物完備し、境内地3660坪(官有地第一種)ありて風致に富めり、又内海を隔て、西の山端字「ヘイノジョウヤマ」と言ふ所に本社旅所地あり、社域150坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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