土佐神社
とさじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】都佐坐神社(大) 土佐国 土佐郡鎮座

   【現社名】土佐神社
   【住所】高知県高知市一宮2499
       北緯33度35分33秒、東経133度34分38秒
   【祭神】味耜高彦根神
   【例祭】8月25日 志奈祢祭
   【社格】旧国幣中社 土佐国一宮
   【由緒】雄略天皇4年創祀
       天武天皇4年(675)3月朔日「土左大神以神刀一口進于天皇」
       朱鳥元年(686)8月秦忌寸石勝が奉幣天平宝字8年(764)11月大和へ奉迎鎭座
       天平神護元年(765)大和の高鴨神に神封53戸のうち「土佐10戸」
       貞観元年(859)正月17日従五位上
       天慶3年(940)2月1日正一位
       永禄6年(1563)5月兵火焼失
       元亀2年(1571)再建
       明治4年6月土佐神社と称、国幣中社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は諸説有り
        現在の地に遷した年代不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「高賀茂大明神」と称していた
   【公式HP】 土佐神社
   【社殿】本殿入母屋造柿葺
       幣殿・拝殿・社務所・神饌所・神庫・楼門・絵馬殿・鼓殿・竈殿

   【境内社】西御前社・大国主神社・事代主神社・厳島神社
        神明宮・瀧宮神社・東天神社・西天神社・春宮神社

   【境内図】 境内図

大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられている。
高鴨神(高賀茂神)は大和の葛城山で大泊瀬天皇(雄略天皇)と獲物を争い、天皇は怒つて高鴨神を土佐へ流したという。
高鴨神は、はじめ、幡多郡の賀茂社へ流され、次いで、ここ土佐神社へ移り祀られた。


由緒

大国主命の御子であらせらせ、御称名も数多く土佐にます神、土佐高加茂大社・高加茂大明神などとも称えまつり日本書記によれば、創建年代は遠く上古時代とも言われます。とくに皇室の御崇敬あつく勅使の参向もしばしば有り、平安時代、朱雀天皇の御代・天慶3年(世紀940年)には神階を正一位に進ませられ、土佐の国総鎮守一の宮として当時は武門の崇敬厚く室町時代、正親町天皇の御代・元亀元年(世紀1570年)には長宗我部元親が本殿・幣殿・拝殿を再興し安土桃山時代、後陽成天皇の御代・慶長6年(世紀1601年)には山内一豊、封をこの地に享けるとともに以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社・末社を始め、鳥居・桜門・鼓桜を増築して土佐の国、最上の祈願所としました。延喜の制が布告された平安時代、後醍醐天皇の御代(世紀901〜923年)には大社に列せられ、明治4年(世紀1871年)土佐神社と称して格を国幣社に列し、戦後昭和21年(世紀1946年)には永年つづいた神社制度は終わりを告げて宗教法人になりました。
御祭神
●味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ) ●一言主神(ひとことぬしのかみ)
『日本書紀』の天武天皇4(675)年3月2日の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」とあり、また朱鳥元(686)年の8月13日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされていますが、『土佐国風土記』逸文には「‥土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」とあり、祭神の変化がみられ、祭神を一言主尊と味鋤高彦根尊としています。この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




土佐神社

土佐の国一の宮
土佐神社
参拝の栞
土佐神社
高知市一宮(いっく)に鎮座
土佐神社は古くから南海の総鎮守として霊験あらたかな神様で一の宮または志奈禰様と称え、特殊な信仰があり信者も多く境内は約一万坪ほどで鬱蒼とした森林に蔽われて社殿はわが国、神社建築の中でも優秀且つ豪壮雄大な気宇を持つ国宝建造物として衆目を集め、風致幽遂、森厳を極めた実に四国本島随一の大社であります。
御祭神
味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)
一言主神(ひとことぬしのかみ)
御由緒
大国主命の御子であらせられ、御称名も数多く土佐にます神、土佐高賀茂大社・高賀茂大明神などとも称えまつり日本書紀によれば、創建年代は遠く上古時代とも言われます。とくに皇室の御崇敬あつく勅使の参向もしばしば有り、平安時代、朱雀天皇の御代・天慶3年(西紀940年)には神階を正一位に進ませられ、土佐の国総鎮守一の宮として当時は武門の崇敬篤く室町時代、正親町天皇の御代・元亀元年(西紀1570年)には長宗我部元親が本殿・幣殿・拝殿を再興し安土桃山時代、後陽成天皇の御代・慶長6年(西紀1601年)には山内一豊、封をこの地に享けるとともに以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社・末社を始め、鳥居・楼門・鼓楼を増築して土佐の国、最上の祈願所としました。
延喜の制が布告された平安時代、醍醐天皇の御代(西紀901〜923年)には大社に列せられ、明治4年(西紀1871年)には土佐神社と称して格を国幣社に列し、戦後昭和21年(西紀1946年)永年つづいた神社制度は終りを告げて宗教法人となりました。
国宝その他の建造物
本殿  41坪(約153u)
幣殿  18坪(約59u)
拝殿  97坪(320u)
いずれも国宝国の重要文化財
長宗我部元親の再建したもので幣殿・拝殿を合せて入蜻蛉(いりとんぼ)式の称があります。
鼓楼 6坪(約20u)国宝 国の重要文化財
山内忠義の建立慶安2年(西紀1649年)
楼門 110坪(約66u)国の重要文化財
(神光門)山内忠義が再建寛永3年(西紀1626年)
大鳥居 一基 山内忠義の建立
祓所 一棟 明治100年(西紀1967年)を記念して建立、神樹を輪切にしたものを潜り祓を受ける。
宝物何れも県または市の重要文化財
鯰尾の鉾 延喜(西紀900年代)式に見られる。
古鏡   古代各時代のもの。
能面   天正(西紀1580年)年代以前のもの。
明治天皇御衣 白羽二重 一領
その他御輿、大太鼓、絵馬、書画等
摂社 拝殿共四棟山内忠義の建立
(右)大国主神社
(中)西御前社
(左)事代主神社
 本殿西に奉斎 御祭神は福徳円満の神として一般の信仰が厚い。
末社 一棟 山内忠義建立
厳島神社 鼓楼の東、神池中央の島に奉斎し御祭神は、市寸嶋姫命・多紀理昆売命・多岐都比売命
御旅所
上古時代は御船遊びの儀として高岡郡浦の内の鳴無神社まで御神幸されましたが明治13年(西紀1880年)現在の旅宮へおなばれする様になりました。

由緒書



土佐神社

御由緒
土佐神社の創祀については、明らかでありませんが、境内東北方の礫石と呼ばれる自然石を磐座として祭祀したものと考えられ、古代に遡ると言われています。延喜の制が布告された平安時代、醍醐天皇の御代には式内大社に列せられ都佐坐神社と称され、特に皇室の崇敬あつく勅使の参向もしばしばあり、朱雀天皇の御代天慶3(940)年には、神階を正一位に進ませられています。鎌倉時代初頭には神仏習合時代に入り、土佐国総鎮守一宮とされました。当社・神宮寺・善楽寺にて一宮を形成、土佐高賀茂大明神と称えられました。室町時代には、武門の崇敬あつく、正親天皇の御代元亀元(1570)年には、長宗我部元親が、本殿、幣殿、拝殿を再興、安土桃山時代後陽成天皇の御代慶長6(1601)年には、山内一豊封をこの地に享けると共に以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社、末社を始め、鳥居、楼門、鼓楼を増築して、土佐の国最上の祈願所としました。明治元年、神仏分離令により、永年続いた神仏習合時代が終わり、明治4年には土佐神社と改称、社格を国弊中社に列しました。戦後、昭和21(1946)年官国幣社の制度が廃止され、現在では神社本庁の別表神社とされています。
御神徳
味鋤高彦根神は、大国主神の御子であらせられ、国土の開拓、農工商あらゆる産業の繁栄の神様であることが伝えられ、一言主神は、和合協調の神として一言で物事が解決されるという特殊な信仰のある神様です。これにより当社は、古くより南海の総鎮守として家内安全、農産繁栄、建設、政治などの神様とされ、さらに御功績により航海安全、交通安全、病気平癒の神様と称えられるなど、広く開運招福の御神徳があるとして、崇敬されています。

社頭掲示板



土佐神社

礫石(つぶていし)の謂れ
古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はずとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との閏係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており、学界では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。
昭和49年8月
宮司識

社頭掲示板



土佐神社

御祭神
●味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ) ●一言主神(ひとことぬしのかみ)
『日本書紀』の天武天皇四(675)年三月二日の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」とあり、また朱鳥元(686)年の八月十三日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされていますが、『土佐国風土記』逸文には「‥土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」とあり、祭神の変化がみられ、祭神を一言主尊と味鋤高彦根尊としています。この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。
御由緒
土佐神社の創祀については、明らかでありませんが、境内東北方の礫石と呼ばれる自然石を磐座として祭祀したものと考えられ、古代に遡ると言われています。延喜の制が布告された平安時代、醍醐天皇の御代には式内大社に列せられ都佐坐神社と称され、特に皇室の崇敬あつく勅使の参向もしばしばあり、朱雀天皇の御代天慶3(940)年には、神階を正一位に進ませられています。鎌倉時代初頭には神仏習合時代に入り、土佐国総鎮守一宮とされました。当社・神宮寺・善楽寺にて一宮を形成、土佐高賀茂大明神と称えられました。室町時代には、武門の崇敬あつく、正親天皇の御代元亀元(1570)年には、長宗我部元親が、本殿、幣殿、拝殿を再興、安土桃山時代後陽成天皇の御代慶長6(1601)年には、山内一豊封をこの地に享けると共に以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社、末社を始め、鳥居、楼門、鼓楼を増築して、土佐の国最上の祈願所としました。明治元年、神仏分離令により、永年続いた神仏習合時代が終わり、明治四年には土佐神社と改称、社格を国幣中社に列しました。戦後、昭和21(1946)年官国幣社の制度が廃止され、現在では神社本庁の別表神社とされています。
御神徳
味鋤高彦根神は、大国主神の御子であらせられ、国土の開拓、農工商あらゆる産業の繁栄の神様であることが伝えられ、一言主神は、和合協調の神として一言で物事が解決されるという特殊な信仰のある神様です。これにより当社は、古くより南海の総鎮守として家内安全、農産繁栄、建設、政治などの神様とされ、さらに御功績により航海安全、交通安全、病気平癒の神様と称えられるなど、広く開運招福の御神徳があるとして、崇敬されています。

公式HP



志那禰祭(しなねまつり)

志那禰祭(しなねまつり)は、毎年夏の8月24日・25日に行われる土佐神社と鳴無神社の例祭であり、「土佐三大祭」の1つとされています。また、別名を「御船遊び」と言うそうです。
その起源は古く、奈良中期(759年)には既に行われていたとされ、古代には鳴無神社まで御座船で海上神幸を行なったとされています。しかし、海難や狼の襲撃に遭うことがあったため、五台山北麓に御旅所(土佐神社離宮)を建てて、そこまでの船渡御と変わり、さらに明治13年(1880年)に一本松御旅所(土佐神社御旅所)が建てられたことから、現在はその御旅所までの徒歩神幸となったそうです。
そのため、現在では土佐神社と鳴無神社は別々に志那禰祭を行っているようです。ちなみに鳴無神社の志那禰祭では、祭の終盤に漁船3隻に神輿を乗せ、供船の漁船20隻を従えて、大漁旗をなびかせて海上を渡航する船渡御が行われるそうです。
なお、志那禰祭の「しなね」の語源は、風神のシナツヒコに基づくとする説や、新稲祭(新嘗祭)の「新稲」の転訛とする説などの諸説あり、24日早朝の忌火祭で扱われる松明は「狼の襲撃に遭った際に松明で追い払った」という故事に因み、また参詣者が持ち帰ると落雷から免れるという信仰(火雷信仰)もあるとされています。

人文研究見聞録



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