神社は洞窟の穴の入口のところにあつたという説、もとは石土山(丸山)の麓の巖窟の中にあつたという説、石土池の端にあつたという説がある。 石鎚山上の石鎚神社の元社と云われている。 |
石土神社 54代仁明天皇御宇承和8年(1110年前) 60代醍醐天皇の延喜5年(1052年前)延喜式格式制定 延喜式社土佐の国21社のその1として神名帳に成る日本国内上格の御官者は神祇官より直接幣帛を捧げらるる谷重達先生の土佐の国式社考に詳なり。 御神霊は神秘にして掛巻も畏けれども伊邪那岐命の御子綿津見の命の次に生まれさせ給ひし上筒男の命中筒男命底筒男命の御替名が此大神である事は本居宣長先生の古事記伝に明なり。 此大神は海上鎮護の神にして漁業は素より農商業家内安全にも等しく霊徳高く長宗我部山内公歴代崇敬の御神元海南学校教諭寺石正路先生史蹟調査の結果によると300余年前修験者此神社より伊予國新居郡■ヶ森に働請し延喜式社なりと衆人に呼かけても朝庭に於せられては御記録の通りにて此部此村にして寸分の紛れなしとて御変更なかりしとか其の後伊予新居周布の境なる伊予の地高嶺に遷座してより本名高嶺の名は次第に廃れ現在の石鎚山となる石鎚神社は延喜式社に非ず、伊予国周布郡新居敷村2911番地著者牧龍太出版人2890番地井上多三郎2912番地今井直三郎2911番地秋山秀吉等明治13年4月22日上御届出同年6月15日出版の著書の中に石鎚神社は元土佐の國より分霊したものにして土佐長岡の石土毘古の命を原祠と称すと記せり(石鎚山先達記に有り) 当石土神社は、夙に太政官符に列し日本有数の神社にも拘わらず明治初年より大正の末期迄おろそかとなり誠に恐れ多き次第なりしを竹内丑太郎が再興し横田早馬達の努力により今日の隆盛をみるに至りしは限りなき大神の御威徳と一般信者の奉献の賜として記す。 社頭掲示板 |
石土神社 夫レ當石土神社ハ石土毘古命ヲ祭神トシ、其ノ名ハ延喜式ニモ載ル由緒の官ナリ 雖然荒廃甚シク人ハ久シク其ノ何モノタルヤヲモ識ラザリキ 時ニ大正ノ末頃、竹内丑太郎ハ伊豫国石鎚神社ノ社司武智勝丸ヨリ同社ノ本尊ハ元来土佐国長岡郡ノ南部ニ鎮マリマスト聴キ之ヲ奇トシ、爾来当社ノ世ニ顕レム事ヲ切ニ願ヘリ 其ノ後横田早馬ガ古記録渉猟調査シ其ノ延喜式ニ記ス石土神社タルヲ明カニシ、大正十三年其ノ復古期成大会ヲ開キ自ラ奉斎会長ニ就任、爾来三十有余年多数同志ト共ニ其ノ隆昌ヲ計リ遂ニ今日ノ盛大ヲ見タリ 寔ニ当社ノ盛衰ト有志者ノ労苦ヲ偲ブトキ感慨無量、茲ニ会員相謀リ一碑ヲ建立シ由来ヲ記シテ後世ニ伝フ 昭和32年7月1日 川上不動尊主管 船岡法蔵撰書 社頭石碑 |