殖田神社
うえたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】殖田神社 土佐国 長岡郡鎮座

   【現社名】殖田神社
   【住所】高知県南国市植田1267
       北緯33度37分15秒、東経133度39分47秒
   【祭神】阿遲耜高日子根命
   【例祭】 10月31日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】勤請年月日や沿革など不明
       貞観8年(866)5月22日従五位上
       延宝3年(1675)11月造営
       貞享元年(1684)9月造営
       元緑7年(1694)11月造営
       元禄14年(1701)12月造営
       寛保3年(1743)3月造営
       弘化4年(1847)山内豊矩の額が奉納
       明治元年殖田神社と創建時の社名に改称
       明治5年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「高賀茂大明神」と称していた
   【社殿】本殿柿葺
       幣殿・拝殿・御炊殿

   【境内社】

大国主命の御子阿遅鋤高日子根命の後裔の賀茂氏がその祖先神を奉齋したものであるといわれている。
植田や一宮・鴨部付近には賀茂氏一族が繁榮していたと伝えられている。


由緒

植田部落の東方にある。延喜式内社、土佐国二十一の内の一社。旧郷社。
祭神は阿遅鋤高日子根神。古くは植田神社(土佐州郡志)、高賀茂大明神(南路志)とも称した。
創祀年代未詳であるが、当地は「和名抄」長岡郡条に見える植田郷の中心地で加茂氏が居住していたと考えられる。したがって当社も加茂氏によって奉斎されたものと思われる。「土佐国式社考」によれば、植田神は味鋤高彦根尊のことで、土佐国一の宮(現土佐神社,高知市一宮)の祭神と同神であると考えられる。「三大実録」貞観8年5月22日条で、「植田神」として従五位下から従五位上に昇叙した。「延喜式」神明帳には、南国市には、「植田神社」の外に「豊岡上天神社」「小野神社」「石土神社」がある。天正16年の植田本村地検帳に「加茂大明神」とあり、「松木林アリ」と注記される。現在は終戦後に檜が植えられている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




殖田神社

殖田神社の由来」
社格 延喜式内社
祭神 阿遅鋤高日子根命
鎮座地 南国市植田字東野1267
 殖田神社即ち、高賀茂大明神は、東西に連亘する北山の峯巒をあ仰ぎ城ヶ谷 古墳群を背に幽閑静寂なる仙境の地に鎮座する。
 殖田神社は、賀茂氏の神社であり、祭神は、阿遅?高日子根命と申し、大國主命と多紀理毘売の御子である。阿遅?高日子根命は、別名、迦毛大神といわれ、賀茂氏の祖であり、人間、国土を支配し護る神、即ち国津神と古事記には記されている。
 賀茂一族は、壬申の乱(672)の活躍にて、天武十三年(684)に八色の姓の制度により、朝臣の姓を賜はる。この姓の制定は八階級の氏族の身分制度で従来の姓制を廃し、皇室中心の律令制を整えるため再編成をした姓の序列で、天皇の対氏族政策の一つである。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、蓮、稲置の八階級で、皇族出身より地方有力豪族まで、それぞれあたへている。朝臣の姓は皇族出身、真人の次位の姓、この高貴な姓を賜はるは、賀茂一族が「大國主命の後代」であることの所以である。
 続日本紀に基づくと、「雄略天皇(478)奈良、葛城山にて御狩猟し給へるに、高賀茂の神、老夫に姿を変へて表れ給い、天皇と獲物を相追いて、争い給いしにより、天皇これを大いに怒りて、老夫を土佐国に流し給う」。
「この事を憂ひて」賀茂朝臣田守が、天平宝字八年(764)称徳天皇に奏請するに、天皇大いに心をいため、急ぎ土佐国より、大和の国の本拠に復し祀らんとする。然るに其の、和御魂は土佐国より離れ給はざるに、猶この国に留め奉り、奉斎の成れる事と定まる。其の四年後、賀茂朝臣田守は、高賀茂の姓を賜はり、高賀茂朝臣田守と呼ばれている。更に三代実録によれば、貞観8年(866)には、土佐国従五位下、殖田の神、従五位上、を清和天皇より授かり、古代殖田神社の存在が記録によって見える。
 さて、高賀茂朝臣田守が、天皇に奏請せし天平宝字8年は、今を遡ること、1243年に及び、奈良時代に高賀茂朝臣田守は此の地を殖田神社と定め祖先高賀茂の神、阿遅?高日子根命を祭神と鎮座奉り給い、御身は高賀茂大明神と崇められ静寂な此の地に鎮まり給うなり。
 奈良時代より日本固有の神祇信仰と、外来仏教とが融合した神仏習合が起こり、神社に付属した寺(神宮寺)が建設され、平安時代になると神前読経がなされ、日本の神は仏の衆生救済のためにとった其の姿を変えてこの世に現れたものとする(本地垂迹説)仏教の立場からの説が教理づけられる。
 殖田神社にも東福坊が建設され神社の実務も寺が司った傾向が、長宗我部地検帳によって見える。室町時代より、江戸時代になると、神道勢力が増大し、反本地垂迹説が唱えられ、儒者や国学者などが
神道の純粋性を論じて、廃仏思想を高唱し、明治維新政府は神仏分離策をとる。第二次大戦後、神社は国家管理を離れ信教の自由の見地により神社本庁に包括される宗教法人となり、神祇恩徳を奉体し、崇敬者の輪が広がり、神社・住民一体となって発展している。
 神社新築、改築の歴史
 延宝以前の棟札はなく、戦国の乱世に焼失したと思われる。延宝3乙卯年11月の棟札によると、本殿、拝殿共こけら葺の新築に建替えられている。寛政8年丙辰6月25日、本殿、弊殿、拝殿一棟造り共に改築にて屋根はこけら葺であったものを、文政9年2月弊殿、拝殿を瓦葺とした。
 平成19年4月より、本殿、弊殿・拝殿一棟造りで改修を始め、拝殿の前に向拝場所を造り、本殿のみ銅板葺で、弊殿・拝殿・向拝場所は瓦葺とし、同年12月に完成する。
 平成20年1月吉日 久礼田地区史談会 山崎道信 撰

社頭掲示板



殖田神社

祭神 阿遅鋤高日子根神 創立年代詳ならずと雖も、延喜の制式の小社に列し、当国廿一坐の内たり、清和天皇貞観8年5月乙丑從五位殖田神に從五位上を授けられたること三代實録に見ゆ土佐國式社考云、「里人所伝及旧刻牛王皆號高鴨、秦守地検帳称賀茂社、蓋奥一宮同神、或曰、殖田即味鋤之義也、度曾氏曰、姓氏録云、賀茂朝臣、大国主神之後也、大田田根古命孫大賀茂都美神、奉斎賀茂神社(重遠按旧事紀大鴨積命磯城瑞籬麻御世賜賀茂君姓)続日本紀云、神護景雲2年、從五位下賀茂朝臣田守賜姓高賀茂朝臣、蓋殖田大田語相近、奮来号高鴨及賀茂、此郡有美良布神社、疑大田田根古命欺(重遠又按、殖田神社後山旧有若宮、社今亡而址現存、三代実録所謂殖田上神者蓋此香歟)とあり、延宝3乙卯11月貞享元甲子9月、元禄7甲戌年11月、元禄14年辛巳11月の棟札には高賀茂大明神とあり、寛保3癸亥3月再興の棟札には殖田神社とあり、古来より当、植田村の産土神にして明治元年社號高賀茂大明神と改めて殖田神社となし同5年郷社に列す、「神体記云「神体□□本地阿彌陀木立橡作不知」とあり。
社殿は本殿、拝殿、幣殿、御炊殿等にして、境内3801坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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