朝峯神社
あさみねじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】朝峯神社 土佐国 長岡郡鎮座

   【現社名】朝峯神社
   【住所】高知県高知市介良乙1927
       北緯33度33分30秒、東経133度36分39秒
   【祭神】木花佐久夜姫命
   【例祭】10月第3日曜日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀は未詳
       貞観8年(866)6月20日従五位上
       大永7年(1527)3月16日造営
       天文16年(1547)8月12日造営
       文禄2年(1593)9月造営
       元文4年(1739)10月造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】本来は巨石を祀る
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       幣殿・拝殿・神庫

   【境内社】

「淺間神社」より(年代.縁起など不詳であるが)、勧請された宮
本殿後方に「甕の巌屋」と呼ばれる岩の割れ目あり、この割れ目からは常に水が滴り、涸れる事なく、「産井池」に注いでいる。
鉢伏山の北の峰の介良山(介良富士)の西麓に鎮座し、この介良富士を神体山として祀るという。


由緒

当社は、秀麗なる介良富士の麓に鎮座し主神サクヤ姫は絶世の美女神で不二の名にちなんでいる。霊峰富士山(静岡県)の本宮浅間神社より年代はわからねど、勧請された宮で御祭神も同一なり。三代実録や延喜式名帳に所載の神社で土佐の国、延喜式内廿一社の一つなり。近古長宗我部氏も尊信厚く神領田五十余ケを寄進せらる。又、藩主山内家祈願所八社の一つにして貞万葉集古義の鹿持雅澄も歌を奉納す。安産、酒造、農耕、養蚕、山火鎮護等、天孫ニニギノ命と結婚し一夜で妊娠し、出産の時産屋に火をつけて燃えさかる火の中で三子を無事生んだ。火照命(海幸彦)火須勢理命、火遠理命(山幸彦)その事を父親大山祇神が聞き喜び天甜酒(あめのたむざけ)を造りお祝いをする。サクヤ姫も酒造りが好きで、父が酒理解神である故、サクヤ姫は酒解子神といふ。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




朝峯神社

当社は秀麗なる介良富士の麓に鎮座し主神佐久耶姫は絶世の美女神不二の山にちなんでいる。霊峰富士山(静岡)の本宮、浅間神社より年代はわからねど、勧請された神社で御祭神も同一なり、全国に千数百社ある。三代実録や延喜式名帳に所載の神社で土佐の国、延喜内21社の1つなり。近古、長曽我部氏も尊信厚く神領田50余ヶ所を寄進されれる。また藩主山内家祈願所8社の1つにして貞観8年6月に、神位従五位より従五位上と歴史に歴然たり。
万葉集古儀の鹿持雅澄も歌を奉納す。
「まいのぼるこの朝峯の皇神に手向ける麻と散る桜かも」
また南路志に書いた、武藤平道も歌を奉納す。
「のどかなる御世のしるしと、廣前にはなのしふゆふ掛けてくるかも」
安産、酒造、農耕、養蚕、山火鎮護等、天孫爾爾伎之命と結婚し一夜を供にした木之花咲耶姫は妊娠し臨月を迎えたことを爾爾伎之命に告げると、「一夜で身重になるとは考えられない、きっと国津神の子であろう」と言われ戸窓の無い無戸室殿を建て産屋を造り壁土で隙間を塗り潰して、出産の時に産屋に火をつけて燃え盛る火のさ中で三子を無事産んだ。火照命(海幸彦)火須勢理命、火遠理命(山幸彦)なり
そのことを父親大山祇神が聞き喜び天甜酒を造りお祝いする。佐久耶姫も酒造りが好きで、父が酒解神である故、佐久耶姫は酒解子神といふ。

社頭掲示板



朝峯神社

郷社 朝峯神社 祭神 木花佐久夜姫命 創立年月詳ならずと雖も、延喜の制式の小社に列し、當國廿一座の内たり延喜式巻十云「長岡郎五座並小朝峯神社云々」又神名帳考証云「朝峯神社、今在介良村、朝硯根命、日本紀云、鹿葦津姫、亦名木花之開耶姫、朝與葦語通、美称反切売也、駿河國朝間神社、朝峯淺間語通」とあり清和天皇貞観8年5月乙丑、正六位朝峯神に從五位下を授けられ(神祇志料云・按本書、類聚國史、朝峯を岑本に作るは誤なり、故今神階記に拠て之を訂すとあり)同6月癸己、從五位上を加へられし等のこと三代実録に見ゆ、本村岩屋白水部落の産土神にして、明治5年郷社に列す、御神体は鏡の由故に神体記云「神体鏡、但所祭木花開耶姫、彦火々出 見尊大山紙神相殿二座式内の社也」と、然れども今は明細帳に拠るに相殿の御祭神はなきが如し。
建物は本殿、拝殿、幣殿、神庫にして境内1508坪官有地第一種たり社域は小芙容山の麓にあり。蓋し山形富士山に酷似せるが放に此名あり、社前の渓流は清くして参者をして自ら淨潔の感を起さしむ。

明治神社誌料



無形民俗文化財 朝峯神社祭礼

朝峯神社は高知市介良、岩屋、白水集落の産土[うぶすな]神社で、延喜式内社のひとつ。
 秋の大祭は10月20日で、神幸の列にしめ飾りをした酒瓶がゆく。これを担く二人の白丁が、オンビキゾーと囃しながらゆくが、これは御神酒ぞーの意とされている。神幸は少年たちの棒打ちもみられるが、注目すべきものに行子[ぎょうじ]と頂女郎[いたじょう]がある。行子は母親に抱かれた幼児または幼童である。神輿が発達するまでは、この行子に神霊をのり移らせ神馬にのせて神幸していた風の名残りである。神主が大祓[おおはらい]という祝詞を唱えているうちに昏睡状態になり、それが神霊ののり移ったことであった。この行子の世話役が頂女郎である。頂女郎は月のもののなくなった女性がなる。神幸が旅所に着くと、頂女郎は白粉の厚化粧をする。帰社すると直ぐに化粧を洗い落とす。化粧が神がかりの手段であった古代信仰を秘めたものである。また旅所で行子たちに振舞われる田芋、枝豆、吸物膳も古式として注目される。1912(大正元)年から旅所は長崎鎮座の王子神社となったが、古くは頭屋[とうや]とよぶ特定の家から神幸が出発し、それに伴う厳格な祭式作法が行われていた。

高知市HP



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