山麓の小社。 |
王子宮 江戸末期、安政3年(1856)和食郷の金岡山宇佐八幡宮(この境内神社に坂本神社があると云はれる)に隣接する権現社を改築する際、社殿の横梁に「奉造立坂本権現慶長13歳(1608)孟夏吉日大工小助」なる墨書銘が発見された。藤原益躬は@坂本神社は多氣神社の必西なる筈だが、金岡山はその方上にあるA権現は単に神社への尊称で、坂本神を坂本権現と云ひ、後には坂本の名も失ひ來つた。Bその鎭座地は和食郷だが、布師郷と思はれる。布師郷は後世忘れられたが、土佐郡潮江村壽命院藏般若経の奥書に「安藝庄布師郷井ノロ村云云」とあり、井ノロ村は現存する。その井口村から西金岡山邊りまで古の布師郷で、そこは布師氏の領地でC金岡山の邊にタフシヤシキと云ふ所がある。此は元はヌノシヤシキと呼び、布師氏の舘のことで、布(ヌノ)をタフ(楮で織れる布)と誤つたD布師氏も坂本氏と同族だから、祖神葛木襲津彦命を祭るE坂本神社は坂本氏の祖神であるから称し奉つるのでなく、坂本とは「山坂ありて其麓を坂本といふこと常にあれば」単なる地名に.過ぎないと、手きびしい。 発見者の和食神主松本越前純明はこのことを藩庁に届け、藩庁はこの権現社を延喜式内社「坂本神社」なりと認めた。しかし、明治5年に郷社とされた。 この権現社は、安藝郡藝西町和食字馬上土居にあり、王子宮と思はれるが、王子宮は熊野王子権現であるから、これが式社であらうか。和食郷内にはこの外に王子とか権現といふ地名も社名もない。位置からは、坂の本に鎭座されてゐるが、一棟でわびしい宮居である。論社としては別に掲げない。 式内社調査報告 |