多気坂本神社
たけ・さかもとじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】多気神社 土佐国 安芸郡鎮座
   【延喜式神名帳】坂本神社 土佐国 安芸郡鎮座

   【現社名】多気坂本神社
   【住所】高知県安芸郡奈半利町乙中里
       北緯33度26分2秒、東経134度1分49秒
   【祭神】武内宿禰 葛城襲津彦命
   【例祭】10月25日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】両社とも由緒不詳
       貞観8年(866)5月22日「土佐国坂本神」従五位下
       慶長9年(1604)4月棟札に「嶽大明神坂本大明神」

   【関係氏族】多気神社は阿支奈臣 坂本神社は坂本臣と、その同族たる布師臣
   【鎮座地】多気神社は移転の記録は無い
        坂本神社はもとは六丁ほど南に鎮座と伝

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「嶽大明神坂本大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・神輿殿

   【境内社】

多気神社は阿支奈臣が、その租である武内宿禰を、坂本神社は建日臣の後裔坂本臣と、その同族たる布師臣が、その祖葛城襲津彦命を祭神として祀る。
『土佐国式社考』では、多気神社は阿支奈臣の祖神として武内宿禰を祀り、坂本神社は布師臣・坂本臣の祖として葛城襲津彦命を祀るとしている。
現在地はもとの多気神社の地で、坂本神社が現在地の南方600メートルほどのところに鎮座、いずれかの時期に、多気神社の地に遷座したとする伝承があるが相殿となった経緯や時期は不詳。



由緒

当社の御祭神は、多気(たけ)神社は武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)で坂本神社は、葛城襲津彦命(かづらぎのそつたのみこと)である。
共に延喜式内社であり両者は宝永の頃に合祀りされたと伝えられる。
延喜式内社とは、醍醐天皇の御世撰上された延喜式神名帳に登載される古社の事である。武内宿禰袮命は第八代孝元天皇の御孫にして、永く朝政に参興し、樞機に興り、其の歴任は実に景行、成務、仲哀、應神、仁徳、の五朝の久しきにわたり長寿の仁と称さる。又御懐妊中の神功皇后を補佐し、應神天皇の御養育につとめられた事は、今も人口に膾炙されている。葛城襲津彦命は、武内宿袮命の御子である。
仁徳天皇の御製に、魂きはる宇智の吾兄汝こそは世の長人そらみつやまとの國にかりこむと聞くやと、御言葉があるによっても、長命であった事がうかがわれる。葛城襲津彦命も武内宿禰袮命の御遺徳をつがれよく仁政を補弼された。命の息女、磐之媛は履中、反正、允恭、各天皇の御生母である。ご祭神の子孫は蘇我氏であり、其の一族布師臣、坂本臣、等が土佐の國にも点住し各地を開発し文化をひろめ産業をおこし租神を奉齋して地域の守護神として祀った。一千有余年の鎮守の森は現在奈半利郷分七ヶ部落の総氏神であり、延喜の古社のご神徳は広く内外からの崇敬を多しとしている。
「神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う」と云う。産業、文化、延命長寿、安産育成。数々のご威徳は此の地に参ずる人々の、悪を抜い寿を増し命を延べてご守護下さる。遠い遠い古代から神人共に生きぬき尚永久に続く信仰の有難さは、何ものにも増して強く清く尊いものである。
伝説、土佐の國の古名を建依別と云う、多気神社は土佐の國の國魂であろう「讃岐國宮社考」神武天皇の御東征は日向から瀬戸内海を通過されたと歴史上の通説になっている。しかし天皇の御通路は瀬戸内海ではなく土佐の沿岸だといわれる、日向から高岡郡宇佐に着かれて安芸の多祁理の宮(多気神社鎮座地)に御滞在になり、諸準備を整え阿波を経て、やまとに向かわれたと伝えられる。「古事記に」阿岐國之多祁理宮7年坐と記す。広島県安芸郡府中に多家神社あり。
古事記に匂う、安芸の地名や多気の御社名と共に、古代の人々が神武天皇ゆかりの伝説を今に伝えてくれし事に、云いしれぬ心の温もりを感ず。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




多気坂本神社

多氣神社の御祭神は武内宿禰命、坂本神社の御祭神は葛城襲津彦命である。共に延喜式内社であり両社は宝永(1704-10)の頃に合祀されたと伝えられる。
延喜式内社とは、醍醐天皇の御世に撰上された延喜式神名帳来に登載される古社のことである。
神輿橋は境内入り口にあり、大正5年に藤村捕鯨株式会社により奉納された石製の橋である。
また、参道右側には手水舎があり亀の形をした石製の手水鉢がある。
これは大正9年(藤村製糸の創業時)に藤村製糸株式会社および藤村捕鯨株式会社の両社が奉納したものである。
※延喜式神名帳:延喜5年(905)に編纂開始、延長5年(927)に完成奏上

社頭掲示板



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