は住古日留居大明神と唱え、四神ヶ嶽に奉斎されていたが、鎌倉時代の建暦年間(1211〜12)、勅定に依り、将軍・右大臣源実朝公が、現在の地に移転したといわれている。 |
由緒 蛭児神社は古来、日留居大明神と唱え尊崇されてきた古社で、海上安全、豊漁祈念、開運厄除に御神徳の高い運開きの神様として信仰されています。元は、四神ケ嶽に奉斎されていたものを順徳帝の建暦年間(西暦1211年頃)現在の地に移転したものといわれている。「玉葉集」に、鎌倉右大臣源実朝の歌で、「神風や、朝日の宮の宮うつし、影のどかなる代にこそありけれ」とあるが、これは、日留居大明神である当社の社殿の造営工事が完成した時の遷宮のさまを詠んだ歌として有名である。後年、社殿が炎上したことにより、大永2年8月(西暦1522年室町時代)に再建営されたことは、記録文書により明らかになっている。日留居大明神は、延喜式(平安時代・西暦927年)所載の村岡神社であるとの説があるが、詳しいことは分かっていない。 ご祭神火遠理命について。 天孫族で、天津日高彦穂穂出見命ともいう(火の勢いが次第に弱まっていくことを意味し、同時に、稲穂が豊に実って重く垂れることをいう)。この神を山幸彦といい、高千穂宮をも営まれた神で、農耕畜産漁猟の道を指導し、民生安定の基礎を作られた神で、鹿児島神宮の祭神でもある。ちなみに、瓊瓊杵尊は霧島神宮に、鵜鴎葺不合尊は鵜戸神宮に、神日本磐余彦尊は宮崎神宮に祀られています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
蛭児神社 御祭神 天津日高彦穂々出見尊 火遠理命 豊玉毘売命 由緒 当社は住古日留居大明神と唱え、四神ヶ嶽に奉斎されておりましたが、鎌倉時代の建暦年間(1211〜12)、勅定に依り、将軍・右大臣源実朝公が、現在の地に移転したといわれています。『玉葉集』に鎌倉右大臣の歌があります。「神風や朝日の宮の宮移し影長閑なる代にこそ有けれ」とあります。朝日の宮は即ち当社のことで、当時の造営が成り遷宮の有様を詠んだものであります。後年社殿の炎上によって大永2年(1522)壬年8月18日再造営がなされた事は、丹後旧事記其の他の記録により明らかであります。幕政時代、湊宮に船見番所がありましたが、享保2年代官飯塚孫二郎の代に、船見番所を改めて陣屋が置かれた。其の当時、代官の崇敬があった様で、御剣一口の奉納の記録があります。日留居大明神は延喜式の所載(第60代醍醐天皇の時代897〜927に編修された神社明細帳)の村岡神社との説があります。日留居は蛭児であることから後年社名を蛭児神社と称するようになった。明治43年拝殿を改築し、玉垣・石垣をも改修、其の他の設備も加えて、摂社大川・日御碕神社の整備も整い、境内の面目も一新した。境内社稲荷神社は元稲荷山にあり、小泉市太夫代官の奉祀崇敬する社で、明治維新の際、現地に移転した。 さらに、平成21年、6月御本殿廻りの玉垣を僅か取り除き改修、其の他狛犬、灯籠の移設をも施した。正面のみ石垣を新調し周囲は旧石垣を積み直した。境内西北程にも四神ヶ嶽山頂に向かい蛭児神社御鎮座の跡の遥拝所を造営し鳥居を建立した。 四神ヶ嶽(ジジラともいう)蒲井村より大向村へ越える処の右の方に当り、この山上に村岡ノ神社がある。日留居大明神と云うとある。 「丹後府志」に、次のような記述があります。関が原の役のとき、福知山の城主小野木継殿介が、細川越中守の留守に乗じて、田辺の城を攻めた。是に於いて、玄旨法印は、長岡玄蕃頭の妻及び松井佐渡守の妻子を皆、田辺城内に呼び寄せ、その居城に火を放ち、一国一城のほかは、更に城塁を破壊し、悉く田辺城内に籠った。しかし、なにぶん急なことであり、久美より田辺に待機する時間はなかった。そこで、久美にいた佐渡の守の妻子は山深く隠れるように下知された。よって、大西三郎佐衛門、大西惣兵衛などお供してこの山に隠れたとあります。 摂社 大川神社 御祭神 五元五柱神 保食神 大己貴神 少彦名神 埴安姫神 大土御祖神 日御碕神社 御祭神 天照皇大神 素盞鳴尊 境内社 稲荷神社(天満宮合祀) 社頭掲示板 |
千石船の由来 正親町天皇の天正10年、湊宮が時の城主一色守護の領地であった頃、同地に 五軒家(木下、本小西、浜小西、下家、新家)という回漕業を営む豪商が住み、土地の大半はこれらの家々が屋敷として所有し、住民とは親方子方の関係を結び、子方は全て五軒屋に衣食さし持船38隻に乗り組ませて旭の港を根拠地にして外国と貿易を成し盛威を振っていた。 寛永13年、幕府の命令で(鎖国時代であった)船の型を千石船に制限された。それ以来国内貿易に転じ、北はエゾ松前(北海道)から西は下関(萩)兵庫(神戸)難波(大阪)江戸(東京)までをその活動の範囲と成した。 これがため、家運は以前にも増して益々繁盛し、津々浦々にその威勢を知られるところとなった。 その後寛政11年、住民が豊漁祈願と併せて五軒家の全盛時代の遺跡を記念するため この船の模型を土地の氏神様に奉納したものである。 蛭児神社 社頭掲示板 |
千石船三社丸 府重要民族資料 千石船三社丸 長さ2.98m 幅0.80m 深さ0.90m 江戸時代 湊宮には回船問屋が多くあった。この千石船三社丸は回船問屋仙助ほか 氏子崇敬者4名が寛政7年正月(1795)奉献したものである。千石船は米千石を積むのであるが、船の大小は帆の大きさで決まり、帆二十反が千石 この船は千四百石の 大きさの模型として作られている。 三社丸は当区の氏神、蛭児神社と摂社 日御前神社、大川神社の三社に因んだものである。 明治時代までは旧暦正月11日船おろしと言う行事がおこなわれて海上の安全と 豊漁が祈願なされていた。 久美浜町 蛭児神社 社頭掲示板 |
蛭児神社 久美浜湾の出口近く、 湊大橋の東側に鎮座する神社。 中央の社殿が蛭児神社 (ヒルコとは古事記に登場する神で鬼子と言われている)。 この界隈は歴史的事象が多くあり、 順徳天皇が承久の変 (1221年) で佐渡へ流された後、 鎌倉3代将軍、 源実朝がその社を現在地へ遷座した。 またこの地は北前船の基地として往時大いに栄えたと言われており、 五軒家と称された回漕業者が住んでいた。 その後地域住民が、 豊漁祈願と全盛時代の遺跡を祈念して境内左手にその模型を奉納している。 蛭児神社の左後ろに日御碕神社がある。 ここに彫り物を見つけた。 正面向背に立体感溢れる竜の姿がある。 首を左上に向け、 目にはガラス玉が入っている。さらにもう1カ所に、中央にある宝珠をしっかり握った下向きの竜がいる。 木鼻の両端には、唐獅子と象の彫り物が辺りを威嚇するように、睨みをきかしている。 6代目中井権次正貞の銘がある。 丹波新聞2015年10月14日 |