神谷神社
かみたにじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】神谷神社 丹後国 熊野郡鎮座
          (旧地)旗指神社

   【現社名】神谷神社
   【住所】京都府京丹後市久美浜町久美浜小谷
       北緯35度36分14秒、東経134度53分33秒
   【祭神】丹波道主命 (配祀)八千矛神 天神玉命 天種子命
   【例祭】10月 17日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】崇神天皇10年9月四道將軍丹波道主命が創始
       天明元年(1781)再建
       明治6年郷社
       明治40年幣饌供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧社地は大字神谷小字明神谷
        中世の頃現在地にあったに太刀宮に合祀した

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「太刀宮」「神谷太刀宮」と称していた
   【社殿】本殿妻入造檜皮葺
       親詞殿・中門兼拝殿・舞殿・神庫

   【境内社】寒川神社・川裾神社・恵美寿神社・稲荷神社・八幡神社
        皇大神宮・秋葉神社・厳島神社・熊野神社・磯邊神社・金刀比羅神社
        城山稲荷神社・天満宮・海上神社・愛宕神社・三柱神社


四道将軍のひとり、丹波道主命を主祭神とする全国でも唯一の神社である。
旧社地は大字神谷小字明神谷にあり、中世の頃、兵乱のため社屋を破損したので、小字小谷にある太刀宮に合祀したものといわれる。
太刀宮は、道主命が薨去の後、国人が命を追慕し、現社地を選定し創建、その時命のはかせられた国見の劍を太刀宮の神靈として齋き祀つた。そのため太刀宮と呼ばれたのである。宝劍は奈良朝の頃紛失して今はない。
宝剣「国見剣」が祀られていたことから、今の久美浜の地名になったと伝わる。
道路を挟んで岩がある。


由緒

神谷神社の主神、丹波道主命はまたの名を丹波比古多多須美知能宇斯大王と伝え、社記・古書によれば、第10代崇神天皇御宇10年9月(BC88)、天皇は天下を征するため、丹波道主命を山陰(丹波)、大彦命を北陸、武淳川別命を東海、吉備津彦命を山陽(西海)に印授を授い4人の将軍を四道に派遣することとなった。世に呼んで四道将軍と総称する。
その四道将軍中、随一と言う神谷太刀宮の祭神、丹波道主命が鎮撫のため、山陰地方に向われるに際し、出雲大社を奉斎する出雲地方の人々の心を和らげ、前途の平安を祈願し、但馬の国境である神谷の里に出雲国より、八千予神、天神玉命、天種子命の三座の御魂を迎え、久美谷川の清流の川上に社を創建奉斎されました。
丹波道主命は山陰地方平定後、国人となって永くこの久美浜の地に留まり、幽邃の地で海をかけ野をひらき人心の安定に当られ、遠き都人にとって常世につながる幻想の隠国熊野の郷、河上庄(現川上地区)の豪族の娘、河上麻須郎女を妃として四子をもうけ給い、その御一人日葉酢媛は第11代垂仁天皇の皇后に上がられました。命が去られた後、佩帯されておられた神剣「国見剣」を神璽として奉安し、小谷の里に出雲国の神々を合せ祀り、神谷太刀宮大明神と称え奉るを創始とする。遠く奈良時代にさかのぼる。
醍醐天皇の代に制定された「延喜式」神名帳(927年の法令)に登録される、郡内最大の境内地、本殿を始め、境内外に十余の社を鎮祭し、「神谷太刀宮」「太刀宮」と通称される古社である。「道ぬしの神のみことの言向けし つるぎの太刀の宮居かしこし」爾来、久美浜小谷の里を神域として、丹波道主命の功績尊崇は永く後世に及び、丹後、丹波、但馬一帯の衆庶から尊崇されて、神域、社殿も宏壮であったが、中世に一時衰退、荒廃したが、神谷太刀宮の信仰は後世に承け継がれて、当国を領する武将、近々の城主、久美浜代官などに尊崇されて、田地の寄進、社領の安堵により旧に復すると共に近郷の衆庶の信仰次第に篤く、町衆の台頭と共に、神域社殿を整備し、本殿は天明元年(1781)入母屋造妻入向唐破風付檜皮葺を再建、出雲地方に見られる大社造の特徴を備え屋根組み、各所の彫刻など神社建築の秀作で特に「太刀宮造」と呼ばれる独特な建造物である。
昭和60年5月京都府文化財の指定を受け洗練された和風建築であり、他の付属建物も年代は新しいとは申し乍ら豪宕な神門と共に神域の樹木も自然風景に溶け込み、荘厳に大きく寄与し、聖なる造型を作り上げている。神職も由来は明らかでないが、代々相継ぎ現在に至っている。近世に久美浜代官所、明治初年に久美浜県の設置により、地方政治、産業の中心地であったため、近郷の衆庶から、あつい尊崇を受ける社で、丹波道主命を主神として奉斎する全国唯一の神社である。明治6年郷社に列し、明治40年3月神饌幣帛料供進神社の指定。明治42年1月会計法適用神社の指定を受ける。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



神谷神社

神谷神社は、通称「神谷太刀宮」「太刀宮」と称し延喜式の神名帳に記される神社である。現在の本殿は天明元年(1781)に建てられた。桁行き 二間 入母屋造りの桧皮葺の出雲地方に多い大社造の系統をひく建物であり、彫刻も精巧なものとなっており「太刀宮造」と称され この地方では例のない神社建築である。神門も切妻造の四脚門で格天井を張るなど意匠に優れ、 境内社八幡神社本殿も 小規模なこけら葺、一間社流造で孔雀の彫刻を施すなど装飾豊かな建物である。
 祭神として 丹波道主命、八千矛神、天神玉命、天種子命を祀る。丹波道主命は 四道将軍として丹波に派遣されたと「日本書記」に記される。神社では丹波道主命が 丹波平定の後、明神谷に出雲国より八千矛神、天神玉命、天種子命の三座の神々を迎え 出雲の人々の歓心を得、社殿を創建したのに始まると伝えられる。
 丹波道主命は、丹波河上摩須郎女をめとり、五子を授かる。その娘の 日葉酢媛は第11代垂仁天皇の皇后となる。神谷神社は 旧郷社であり、社蔵文書によると文禄五年(一五九六)城主 松井康之から用地寄進を受けていることがわかる。
 鳥居は 石造明神鳥居で、宝永4年(1707)に建てられたものである。八幡山の山麓に巨石を擁し、自然崇拝の「磐座」の様相を呈し、境内地一帯は、京都府文化財環境保全地区に指定されている。
 境内の参考館(考古館)は、旧久美浜県庁舎 玄関棟の建物の一部で、明治初期の武家屋敷の流れをひく役所建築として貴重である。
神谷神社本殿 京都府指定文化財 昭和60年指定
神谷神社神門 京都府登録文化財 昭和60年登録
八幡神社本殿 京都府登録文化財 昭和60年登録
鳥    居 京都府登録文化財 昭和60年登録
参考館(旧久美浜県庁舎玄関の一部) 京都府指定文化財 昭和60年指定
文化財環境保全地区 京都府指定文化財 昭和60年指定
京丹後市教育委員会

社頭掲示板



神谷神社

神谷神社 式内郷社 久美浜町小字小谷鎮座
(神谷社考)祭神・八千矛神・旦波道主命・天神玉命・天種子命。
由緒 当社は崇神天皇10年秋9月、四道将軍旦波道主命、出雲国なる八千矛神を迎へ奉りて、字神谷の地に斎き祀られしを始とす。垂仁天皇の代道主命薨去後国人同命を追慕し、久美の地を卜して神社を創建し、佩かせ給ひし国見剣を神霊として此処に斎き祀る。世呼んで太刀宮と称す。古来久美は国見の仮字也といひ、国見は宝剣より起れる名称也と言ひ伝ふ。斯の如く神谷神社と太刀宮とは、全く別社なりし事は、神社覈録丹哥府志丹後旧事記等に記せるが如し。而して創立後壹千年間に於て、神谷神社は大破に及ふや、之を太刀宮に合祀せしは、遠く延喜以前に属す。爾来一般には神谷太刀宮又は省略して単に太刀宮と唱ふ。奉額神実祭器等に神谷太刀宮とあるは、両社合併の古を物語れるなり。古文書等は省略せる通称に做ひ、太刀宮を以て称するを例とし、現今一般にも太刀宮と唱ふ。諸書記述せる処大同小異なりと雖も、多くは実地史実の片影を誤れり。太刀宮は道主命を祭神とせるものなれど、神谷神社と太刀宮とを合併せる以来、八千矛神と旦波道主命との事歴を混同せるは、甚だ遺憾とする処なり。神祇志に大己貴命刀を奪ひ巨巌を割断せられたりといへるは、太刀宮即ち旦波道主命の事歴にして、現社地中剣岩として特に保存し、古来清浄の地となせる処あり、これ実物を以て保存せる一の伝説記念物と見るべき乎。同社の例祭に字奥馬地より大根を奉るは、剣岩の伝説より起れる事柄なり。
神谷神社の旧社地なりと言へるは、久美谷村字神谷小字明神谷にして今尚存す、右等の関係上毎年字神谷より特に幟を建つるを例とせり。抑も当社は頗る風致に富み、枝うち交はす森林に連続して堺域を成し、長き松畷は千古の状を語り、境内楓樹多く、秋の紅葉は一層風趣を添え、冬の雪景色亦頗る佳なり。前面は田園遠く開け野気溢れんとし、社後は町を隔てて…太刀宮は旦波道主命の宝剣を神霊として祀れる処なるも、其の真剣は夙く紛失して、更に據るべきものなし。行基菩薩の事跡中如意寺建立の記事に『太刀宮の宝剣海中に沈没しあらん事を恐れ、漁夫に命じて網を以て探しむるに玉を得たり、依て宝珠山如意寺を起す』とあり。されば今を距る事既に千百有余年前、奈良朝の頃夙く紛失せるものの如し、現今存せる宗近荒身の太刀は、宝剣紛失を欺き、京極丹波守より特に寄進せられしもの也といひ伝ふ。此外各代官寄進の刀剣燈篭等数多ありて、地方に於ける崇敬の中心たりし也。現社殿は妻入造向唐破風向拝付桧皮葺にして、天明元年の再建に係る。而して明治6年郷社に列せられ、明治40年3月神饌幣帛料供進神社として指定、同42年1月会計法適用神社として指定せられし処なり。

京都府熊野郡誌



太刀宮(たちのみや)さん

御祭神 丹波道主命 八千矛神(大国主命) 天神玉命 天種子命
『神谷太刀宮さん』『明神さん』特に『太刀宮』と親しまれております社が、神谷神社でございます。
むかし、主祭神であります丹波道主命は、四道将軍の御一人として山陰地方平定開拓のおり、御本社の西南約2Kmの所、丹後と但馬の国境である神谷の里、明神谷に、八千矛神、天神玉命、天種子命の三座の神々を出雲の国より迎え、当時、強力な文化を有する出雲の人々の歓心を得、前途の平安を祈願し、大和朝廷に従がわせるよう社を創建してお祭りしたのが創始と伝えております。
丹波道主命は、山陰地方平定開拓の後、国人となって永くこの地、久美の里に留まり、幽遂の地で海を駆け、野をひらき、国土万物の生成、人心の安定、殖産興業につとめられ遠き都人にとって常世につながる幻想の隠国(こもりくに)、熊野の郷の豪族の娘、河上麻須郎女をお迎えになり、五子をもうけ給い、垂仁天皇5年10月に後宮として、それぞれ朝廷にお入りになりました。その御一人第一子日葉酢姫(ひばすひめ)は第11代垂仁天皇十五年、皇后に上られたと語り伝えられております。
丹波道主命が御薨去の後、御恩徳を慕び、久美谷川の清流にそった久美浜小谷の清地に社殿を造営し、常に佩帯されておられた神剣『国見剣(くにみのつるぎ)』を神魂として明神谷の出雲国から迎えた三座の神をと合せ祀り、お鎮まりになられて以後、近郷の衆庶の信仰次第に篤く『神谷太刀宮大明神』『厄除・方除の太刀宮』とたたえ仰ぎ祭られています。
道ぬしの神のみことのこと向けし
剣(つるぎ)の太刀の宮居かしこし
(中略)延喜式の神名帳に列する由緒深い社で、境内外に十数余の社を鎮祭し、境内の一角に巨岩、奇岩がならびたち、神秘なたたずまいを見せております。これが古代に崇敬された『磐座』で、社殿祭祀以前に神様をお祀りしたところです。(

由緒書



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