三島田神社
みしまだじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】三島田神社 丹後国 熊野郡鎮座

   【現社名】三島田神社
   【住所】京都府京丹後市久美浜町金谷
       北緯35度33分45秒、東経134度56分4秒
   【祭神】大山祇命
   【例祭】4月15日
   【社格】旧郷社
   【由緒】孝霊天皇のとき武諸隅命が創祀
       垂仁天皇のとき川上摩須郎崇敬
       文政12年(1829)再建
       大正2年10月神饌幣帛料供進神社
       昭和8年10月21日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「三嶋明神」「三嶋大明神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造クレ葺
       拝殿・籠屋

   【境内社】子安神社
   【別当】神宮寺
       当社の東300mほどに「ジンゴの森」(神宮の森)とよばれる地があり、ここに当社の神宮寺があった、のちに廃絶して海士村の宝珠寺に合併した。


往古川上谷に三ヶ所の嶋あり、その一は武漁嶋(海士付近)、その二は婦嶋(島)、その三は生島(金谷)なり。人皇七代孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉り武漁嶋に中津綿津見命・中筒男命を祀りて矢田神社と稱し奉り、田村庄矢の谷丸田山に下津綿津見命・底筒男命を祀りて丸田神社と稱し奉る。『三嶋田神社由緒』


由緒

山下仙一郎氏編の『三嶋田神社由緒』に「往古川上谷に三ヶ所の嶋あり、その一は武漁嶋(海士付近)、その二は婦嶋(島)、その三は生島(金谷)なり。人皇七代孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉り武漁嶋に中津綿津見命・中筒男命を祀りて矢田神社と稱し奉り、田村庄矢の谷丸田山に下津綿津見命・底筒男命を祀りて丸田神社と稱し奉る。而して人皇九代開化天皇の御宇に至りて河上の摩須が当社を崇敬した。云々」とある。『丹後舊事記』には、「垂仁天皇の朝川摩須郎勸請なりと國名風土記に見えたり」とある。川上(河上)摩須は古事記の「美知能宇志王娶丹波之河上之摩須良女。生子比婆須比賣命、云々」の河上摩須であり、本居宣長『古事記傳』で「河上之摩須良女、河上は和名抄に丹後國熊野郡川上の郷あり是なり」とのべている。また『丹後舊事記』は河上摩須について「開化・崇神・垂仁の三朝熊野郡川上庄須郎の里に館を造る。丹波道主命は摩須良女を娶る」と記している。須郎(須良)=(須田)と三嶋田神社は数百メートル離れて向き合っている。
當社の別當として神宮寺があった。神社の東一町の地にジンゴ(神宮)の森がある。元境内にあり明治維新後境外に移された石佛の背面に「永享12年庚申6月19日、神宮寺六十六部供養−源貞總」と刻まれている。永享12年は1440年で施主源貞總は當時の畑(金谷と同一)城主である。神宮寺は須田村大雲寺の末寺であり、『天龍山大雲寺記録』には「當寺末寺三ヶ寺有、一ハ猪ヶ嶋神宮寺トテ三嶋明神ノウラニアリ」とある。神宮寺は廃絶して字海士の寳珠寺に合併したと傳へている。現に金谷・畑の兩部落に於いて10数戸の寳珠寺檀家があるが、確證はない。
暦應元年(1338)戦功により足利尊氏から1萬餘石を與へられ、畑村(金谷・畑はもと同一の大字であった)に居城をかまへた野村氏は、天正10年(1582)豊臣秀吉のために滅亡するまで三嶋田神社を崇敬した。
野村氏は畑に居城を構へるや荒廃していた大雲寺を再興し、二百石の荘園を寄付している。大雲寺の末寺である神宮寺も野村氏との関係が考えられる。
享和3年(1803)の金谷村の記録によれば、當社はもと十ヶ村(市野々・布袋野・畑・金谷・須田・新庄・品田・市場・出角・芦原)の氏神であったが、その後七ヶ村(市野々・布袋野・畑・金谷・須田・市場・出角)の氏神となり、享和3年故あって分離し、現在は畑・金谷・須田三部落の氏神となっている。
延寶6年(1678)2月再建の棟札、文政12年(1829)再建の棟札がある。大正2年10月神饌幣帛科供進神社として指定される。昭和8年10月21日郷社に昇格(『熊野郡誌』)。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



三島田神社

三島田神社 村社 川上村大字金谷小字今ゴ田鎮座
祭神=大山祗命。
由緒=式内社にして其の創立最も古く、丹後一覧記丹後旧事記等によるに、垂仁天皇の代川上摩須の勧請に係れるものにて、宝永3年の銘ある鳥居には、三島大明神と刻し、文政12年の棟札には三島田明神と記し往古は三島明神にして後世三島田明神と改称せるものの如し、而して当社の別当としては神宮寺あり、廃絶して字海士宝珠寺に合併せりといふ。神社の東三町程にしてジンゴの森あり。神宮の森にして神宮寺の遺跡たり。此の神宮寺存立の年代等詳記せるものなく正確に知るを得ざれど、元境内に安置せる釈迦観音地蔵の三石仏あり、維新後境外に移転せるものにて、右石仏の裏面に神宮寺六十六部供養とあり片書に永享12年庚甲6月19日とあれば、神宮寺存立の年代を推察するに足る。永享12年は今を距る事480年前にして、神宮寺は当社の別当たりしなり。而も当社は元十ケ村の氏神なりしが、後世七ケ村となり尚分離の結果現今は金谷、畑、須田の三部落の氏神として崇敬せり。大正2年十月神饌幣帛料供進神社として指定せらる。
氏子戸数=229戸。
境内神社。鎮守社。祭神=天穂日命、天思兼命。
     竹生島神社。祭神=不詳。

熊野郡誌



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