衆良神社
すらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】衆良神社 丹後国 熊野郡鎮座

   【現社名】衆良神社
   【住所】京都府京丹後市久美浜町須田
       北緯35度33分52秒、東経134度55分33秒
   【祭神】川上摩須
       豊宇気持命『丹後旧事記』

   【例祭】10月1日 例祭
   【社格】
   【由緒】垂仁天皇のとき勧請
       文化元年(1804)造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王社」と称していた
   【社殿】本殿
       祖詞殿・拝殿・籠屋

   【境内社】

元八坂神社と相殿であったが、明治18年八坂神社を末社とし、別に社殿を造営して安置した。


由緒

『丹後一覧記』には「垂仁天皇の朝の勸請」とあり、『丹後國式社考』には「祭神は河上麻須良」とある。河上麻須良は古事記の「美知能宇志王娶丹波之河上麻須良女。生子比婆須比賣命(略)」の河上麻須良である。河上麻須良と須良(須田)との関係については、本居宣長は『古事記傅』に「河上麻須良女、河上は和名抄に丹後國熊野郡川上の郷あり是なり、麻須の義は未だ思ひ得ず、郎女は(中略)男を郎子・女を郎女という」とのべている。また『丹後舊事記』には「開化・崇神・垂仁の三朝熊野郡川上庄須郎の里に館を造る。丹波道主命は麻須良女を娶る」とある。明治35年市場村七社神社神職日下部氏は、その著『丹後國古事記略書』に「丹後舊事記ヲ見ルニ衆良神社ハ馬次村ト有リニヨリ、此社ハ久美谷に馬地村有リニヨリ久美谷に有と思らんモアラン、雖レ然馬次ト有ハ驛馬ノ事ニテ須田村ニ有也」とのべている。
明治17年の「社寺明細帳」には、その由緒をつぎのやうに書いている。「衆良神社ハ八坂(神社)ト相殿に祭祀ス、須良神社ハ丹後舊事記及丹哥府志ニ須良村ト有、當國式社考ニ、須田村也、此地麻須良王ノ領也ト申傳ウ、コノ王ハ丹波道主命ノ舅也ト有、古ハ須原村ト云トモ有、今ハ須田村也、神名帳私記ニ須田村ト有、扱此須田村川上郷ニテ字下山ト云城跡ノ孤山有テ麻須良王之居所也ト稱シ今ニ平民之此山ニ居住スルヲ忌ム(但シ往事此山ニ居住スルモノ数多ク有シモ神崇リニテ永續スルコト無シト云フ)、又殿垣(塔垣)ト云所有リ、麻須良王ノ居住地ト云傳有リ今ハ此所ハ桑畑之中ニ有リ、此須良村之奥但馬之國ニ越ル山ヲ忍坂ト云ナリ、姓氏録ニ火明命後世ト有、衆良神社ハ八坂神社ト相殿ニ祭祀ス、祭神不詳トイエドモ神軆ハ木像二ツ有テ社の割ニハ大像ナリ、相殿兩神ノ神軆也ト云傳ウ、(後略)」と。
衆良神社については、牛頭天王宮(八坂神社)と麻須良皇子との話がある。須田の大雲寺に保存されている奥書天正16年(1588)の『天龍山大雲寺記録』の記述には「(前略)桓武天皇に御皇子豫多在しけり。第一は平城天皇、大同元丙戌に御即位在しなり。第二は弘仁元庚に兄君の位を即せ給ふて嵯峨天皇と奉申なり。第三は、相良皇子と奉申れり。御心悪かりなん兄君の御位を奪んと御媒叛の御企有ければ小野岑守等の計ひにて淡路の國へ渡らせ給ふが遂に彼地にて薨じ給ふ(中略)然るに第四の宮は摩須良皇子と奉號兄君相良天皇(皇子)之御媒叛に組せられければ丹後國に御下り給ふ。後に御料を御許有りて都へ可歸勅使立せ給へども歸り給ふべき御心なかりしや、當所塔垣(殿垣)といふ處に玉關を御立成されて此地に居住成給ふて御年67歳にて薨じ給ふ。後に牛頭天皇宮と奉崇しとなり。御存生の間に國家安全の為に當寺を御建立有りて御代長久を祈り給ふ。(後略)」とある。また同記に同寺の末寺と神社との関係を次のやうにのべている。「當寺末寺三ヶ寺有り、一は猪ヶ島神宮寺とて三島明神の浦にあり、二は長尾山地蔵寺とて牛頭天皇(天王)の口にあり、三は比靈山高山寺とては塔垣の向の谷に有りけれ共、かく迄没落しぬれば彼三ヶ寺をこぼち一ヶ寺と成侍りしかとや」と。牛頭天皇(衆良神社)と長尾山地蔵寺との関係がわかる。
摩須、摩須良、麻須良、麻須良王などのあいまいさは、古事記の河上摩須と天龍山大雲寺記録の麻須良皇子との混同から生まれたものである。「社寺明細帳」にいふ小字殿垣は大雲寺記録の塔垣と同じ場所であり、麻須良皇子の居所であったとするのが正しい言い傳へであらう。衆良神社と牛頭天皇宮が相殿に祀られ、河上摩須と麻須良皇子が祭神であったが、のちに牛頭天皇宮が八坂神社と結びつくため祭神が須佐之男命になったとも考へられる。
明治になって豊岡懸神社取調の節「式内衆良神社」と定められた。(豊岡懸は明治4年から明治9年)明治18年に八坂神社を境内末社として分割し、別に社殿を増營安置した。大正10年上屋を改築し、新に拝殿を設ける。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



衆良神社

衆良神社 無格社 川上村大字須田小字東側鎮座祭神不詳。
按ずるに河上摩須を祀れるものの如し。
由緒=式内小社にして、延喜式には衆良(モロヨシ)神社とあれどスラの仮名なるべく、地名須田と音相近し。丹後一覧記には垂仁天皇の朝の勧請と伝ふ、所在に就ても諸書異説あれど信憑するに足らず。大字須田は河上摩須居住の地にして、小字下山は其の館跡なりといひ、古来平民の此山に居住するを忌む。又殿垣、オノミヤ(王の宮か)などの地名ありて、此処を館跡なりともいへど、下山の方正しきが如し。河上摩須は丹波道主王の外舅にして、上代地方の豪族たりしなり。祭神を按ずるに当国式社考に河上摩須良とあり、良は摩須郎女の良にて正しくは河上摩須なり、恐らくは真に近きが如し。元八坂神社と相殿なりしが、明治18年八坂神社を末社とし、別に社殿を造営安置せり、大正10年上屋を改築し、新に拝殿を設け設備大に整ふ。
崇敬者=六十五人。
境内神社。八坂神社。祭神=須佐之男命。。

熊野郡誌



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